量子力学では、観察者の視点そのものが対象の現象を規定することが理解されている。これは愛でも同様である。愛することは創造することである。ぼくが愛するひとの本質、ぼくがそのひとの本質であると感じ信じるものは、そのようにぼくがそのひとを愛することによって、実際にも現出する。これこそ創造である。かりにぼくが一方的に愛するのであっても、その愛はそのひとの存在そのものに創造的にはたらきかけるのである。ひとつの石でもそれを凝視する者の精神そのものによって働きかけられ、その石は謂わばもともとの石そのものと凝視する者の精神との共創造物となるのである〔感受・認知・情報伝達力があることが科学的に確かめられている植物、それ以上の高等生物と、人間との間なら、どんな共創造が生じていることだろうか。それはあたかも人間精神の注入によって、それら生物が創造的進化を遂げるかのようなことだろう〕。デュ・ボスのプルースト論はそのような神秘を論じている(そのような神秘の理解へ導く)驚くべき論である。

 

 

 

高田博厚の思想の最も難解と思われる境位の理解にも、このことは深く関わってくるであろう。「地中海にて」参照。あるいはぼくの「高田博厚における触知し得るイデー」終結部に示唆されている思想。 

 

 

〔『外部に位置していて感覚器官に直接はたらきかける物体は、精神が物体を包み込んでいる執拗で熱烈な凝視の影響を、お返しとして、こうむる。物体はこの視線のもとでそれと気づかれない程度に変化してゆく。・・・しかしながら、精神は、物体への凝視に我を忘れ、謙虚な人の味わう充足感、心からの感嘆に付随するあの充足感を物体を前にして体験するが、自分自身が部分的にせよその変質の原因であるなどということは疑ってもみないのである。精神がその現場に居合わせているこの変貌は、まるでそれが物体それ自身の第二の状態であるかのように、物質の真只中において非物質性が知覚されるかのように、精神を魅惑する。』

(デュ・ボス「マルセル・プルースト」)〕

 

〔ほんとうにイデーを持つということは大変な行為らしい。「山をも動かす信仰」そのものである。だから大事なことは、自分の確固とした思想を創造することに打ち込むことである。それいがいのことではない。間違った、概念の彷徨い事のような思想ではない。いまのぼくのような思想に打ち込むことである。〕

 

 

『あらゆる状況において精神の本質的な義務とは、彼自身の言葉を借用すると、「自らの印象の果てまでつき進むことである」とプルーストはつねづね考えていたのである。

 彼の根本的な偉大さ―作品の出来映えのもたらす栄光とはある程度まで独立している偉大さ―のすべてはこの厳しい規律を実行に移したというところに存する。この中心的な徳行から、必然的に、そして見たところは易々と、それ以外の徳行を束のようにして彼は放射させたのであるが、それらの徳行はそれぞれ自らの功績として真実という豊かな貢ぎ物を所有することになる。・・・』

(デュ・ボス「マルセル・プルースト」)

 

厳密にぼくのために書かれたような、納得させる言葉である

 

 

 

 

 

 

翌日 ついに咲きはじめました!

 

 

今年最初の金木犀の花が木の奥に咲いていました

 

昨日まではなかったと思います

 

木の前面にも、ふくらんだ蕾が一夜のうちにいっぱい出てきています。

 

咲く前の大きくふくらんだ蕾をみるのもたのしいですね

 

14時

 

 

よくみると、開花している蕾ももうあります

 

ぼくの気持 金木犀に伝わってるかな

 

 

 

 

 

当分、デュ・ボス『近似値』を、休息を中心としてその傍ら読むことになろう。けっしていそがない。早読みとは、理解せず読む術である。理解力がないので速読多読する者は、このこと自体を自慢することをけっしてやめない。理解できるようになった分だけ、読むことは遅くなる。しかしそうするとこの重厚な書を、いまの状態のぼくが読み終えるのはいつになることだろう。この書にはそれだけのものが詰まっている。この書を読むことは必要である。ぼくの糧となるよう読む。得たすべてを書くことは無理だろう。この書を読むことはぼくでさえ時宜を要した。この書の根底にあるものは、習慣的思考への侮蔑を結果するような、窮極の真実への無制約的努力であり、そのような努力行為としての知性の称揚である。すべてはぼくの精神の渇望と高田博厚学のためである。