「人間主義」と「人間中心主義」とは、次元が異なる。これは、「自己愛」と「エゴイズム」とが異なり、実存哲学と実存主義とが異なるのと、同様の相違問題である。ここでわれわれは同一術語の使用(例:「人間」)により、容易に内容の混同・すり替えをし、主張や反応をしてしまうようだ。とくに情緒的想念にたやすく流される傾向が強く、ねばり強い思考が不得手な日本人は、このことに留意すべきである。
「精神は若年時、思考の中に生き、成熟すると思考と共に生きる」 デュ・ボス (ヴァレリー論・結) :昨日。 デュ・ボスの名文を味わってください
「わたしたちが幸福であるかぎり、どれほどの世界を占めているかは問題ではない。おまえがいま眺めていた人たちは、もっと広い場所を持っていたが、わたしたちほど満足な生活はしていなかったのだ」
――数億年の未来の人間の言葉――
PCはなぜ本体とマウスを分離したのか。何の益もないことだ、ユーザーにとって。すべてはこのようである。
PCといえば きょうおもしろいことがあったが、ああいうことをやっていいのかなあというよりも、その現象が示唆する或る関係性に意を留めている。
世間知らず
世間で生きている者は世間知らずである。ぼくは、世間通を自任し実証もしている(実際に世間で〈通用〉しているから)つもりでいる者たちの執拗なすすめに従って、敢えてした言動で、世間知らずだと思われ、恥ずかしい思いをしたことが何度もある。こういうことは妙に思い出すたびに悔やまれるものだ。結論を言うと、〈おまえは世間知らずだ〉と他者に言う者は、例外なく自分自身が世間知らずなのである。これは当然のことの様にぼくには思われる。なぜか、と自問する――ぼくの直観するところを分析する――。 「人間」をつくっているものは、世間だけではないからである。そういう「人間」に、世間を基準にしてものを言う、それはそれだけで世間知らずである。 以前にも同様のことを言った。 世間に生きている「人間」は、世間以上のものである内面性と繫がって生きている。これを理解しない者、自覚して生きていない者が世間知らずなのである。世間通を気取って生きている日本人の社会は、世間知らずの社会である。海外に出るとそれがよくわかる。日本人はかろうじて綱渡りでしのいでいるだけである。なにかこう、普遍的な原理に足を着けて生きていない、それが日本社会である。
ブログ空間などと、誰もこういう気の散るところで創造しようとは思わない。自分を形にしておきたいから当座のところ我慢してやっている。創造をこういう場で純粋にやれる社会を到来させなければならない。文化社会は必然的にどういうものでなければならないか。物質的基礎の問題があるから難しくなる。商業主義を排除した場をつくらなくてはならない。原稿はWordで。
人間は、他に嫌われていいから自分のこれを貫くと決め為す瞬間からしか、「生き」はじめない。