ぼくの愛と美と信仰が示せたら それは ぼく自身であり ぼくの根源的思想そのものである
それは「ぼく自身」の触知しうるイデーだろう それは同時に「ぼく自身」による「神の定義」だろう これいじょうの思想をぼくは求めない
自然を観察する、肉付けの正法をとる、このような実証の道も、自己内部の秩序と促しに即して生きる主体性に包括されていなければ、「宗教的」であることはできないだろう。
高田先生とともに言えば、「プラトンの理念」と「アリストテレスの実証」は、互いを求め合うのである。ただぼくは、そのように言葉で言ってすますのでなく、ぼく自身がこの原則を「実践」し、まさに理念を実証することを欲し、現実にするのである。
「自分を示す」ことが、最高の、真実の思想の在り方である。それが「美」であり、「作品」である。最高の思想者、芸術者は、本質と内実においてそれいがいのことをしていないし、なしえない。内実は、「自己」でしかない。およそ自己を、借り物でない自己を、示さない、いかなる真実の思想者も芸術者もありえない。
人間の「仕事」とは、自分という「芸術」を創ることである。 自分の「魂の実証」を為すことである。
思想とは「道」である。すべての道がそうであるように、任意に自分が選択する道などというものはない。自分の生を「運命」とするほどの真摯さがあるべきであるだけである。人間の「自由」とは、この真摯さでありうるのみである。
《彼ら〔ロダンとルオー〕を芸術家たらしめようとするうながしと、宗門にはいらしめようとする誘(いざな)いは彼らの内部の宗教性から来ているのである。道は二つに見えても根拠は一つであった。・・・西欧芸術は伝統的にもこの宗教的要素を含んでいる。・・・しかしこの二途のいずれかを選択するのは、自分自身ではなく、宗教的な彼らに言わせれば、まったく運命的な ”神のみ心(ヴォカシオン)による” ものであろう。》-「偉大な芸術家たち」既出-