これはぼくの感慨である。精神が正常だから言う言葉である。いまのぼくの状態状況とも関係ない。:
此の世に生きていて、魂への愛のために狂わない者は、ろくな者ではない。
学識の有無、所謂信仰の有無にさえ関わらず、阿呆は、他者が容易に阿呆にみえるらしい。
此の世はそういう者等でぎっしりしている。 正しい魂が傷つかないほうがおかしい。
良心は、調和の理念である。調和の理念にはふつう従っておいたほうがよい。奇妙に無理がかかるから。 どうしても突破しなければならない時というのは、此の世のほうから指示してくる。その時突破しなければ 此の世は悪のしたい放題になる。
〔これを書いている時、おもしろい事を経験した。「良心には普通したがうほうがよい」と書いた途端に、正確に、具体的には言わないが、外応が起こった。ぼくの経験から、この種のことは、偶然と見做すことのほうが心理的に不自然で無理をしている。〈おゆるしが出た〉と魔物が勘違いしたふりをして出てきた按配だ。そこで叱責して、つづく文を付記した。つまらないことだが、相手をしてほしがっている犬のようなやつだ。予定外の事を書いた。被害者は大変だろうが、ぼくのように薬を飲まされて神経組織を破壊されるよりはましだ(正常だったから薬で神経が破壊されることになった)。こういう状態でもぼくは勉強したいことはいくらでもある。こういう状態にさせられてもなお続く余計な現象に、こういう状態で耐え抵抗することは、じつに難儀であることを察して同情してほしい。気持にゆとりがなくなっているが、そのなかで自己調節し、勉強も続けようと努力しているのだから、自分で欲して自分のためにそうしているのではあるが、ぼくはそれだけで敬意を持たれてよいと思う。〕
もし、「魂」への信仰がなければ、ぼくの言葉でいえば「夢への信仰」がなければ、殉教などばかばかしくてできないどころか、殉教(信仰のために死ぬ)という観念そのものが成立しないだろう。「星の王子」の信仰がなくてはならないということなのだ。此の世の実感とはかかわりなく、魂はその美しい記憶とともに永遠に実在している。それを信ずるためには、一度それを感じて信じる気持になったことがあれば十分なのだ。
善行など当てにはならない。たまたま状況が恵まれていてできたにすぎない。同じ行為を、別の状況ではけっしてできないだろう。同じ人物が、まっさきに善行の裏ぎり者になるだろう。
信仰がなければ、あらゆることは偽善である。信仰は、ひとつの真剣さであるとしか言えない。その真剣さは、そのつど自分を反省し自分に向き合うところから、そのような内面的思惟から、生成するだろう。
それが本来、実存的思惟なのだ。