演奏に無心で打ち込む素顔が現われた瞬間と思える。普通の自分の生活の場ではこういう質実な雰囲気で創作・修練に打ち込んでいるのではないだろうか。その普段の表情挙措は公的な演奏の場でももちろん出る。その瞬間と思える。そういうものをぼくはとらえようとしている。ぼくのつくるべき塑像の基礎イメージのひとつとなりそうだ。自分になりきって真剣な、あるいは寛いだ、挙措表情は、「自分の証」として美しい。何体もつくってみなければならない。そのひとつが、演奏に無心な有心で打ち込む姿だ。ぼくがつくれば、内面を追求せずにはおかない。おのずとそうなる。 いろんな表情のきみをつくりたい。 演奏するときの重厚さ、あそぶときの無邪気さ… 一様でないきみには驚く  あの表情がどうしてこの表情になるの? といつも思っている。実際にきみと接さない者にとって、どうしても同じきみとは思えない表情が きみには多すぎる。統一的なきみがものすごく把握しづらいのだ。(表情の)そのひとつひとつは完全に統一された存在感のある個性なのに。そのつどの瞬間に表に出る個性によってきみはまったく別人にみえる。こういうひとをぼくは知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

調和的美ということに関してものすごく感覚と意識がはたらいている。それがきみの知性の本質。きみの鍵盤をさばく手指の動きをみていれば如実にわかる。そのほかのことでも、その調和的美への配慮が、自分のステータスの保持と他者への気配りとの両方への配慮として、よくあらわれている。

 

 

傍に自分を解放できる他者がいるときのきみは、とてもフレンドリーなよい表情をしている。そうでないときのきみは、ぼくには気懸かりな、孤独が運命のような表情をしている。