「(聖書の)非神話化を問う」(ヤスパース / ブルトマン 論争、1948)より:


「私は、自分が精通しない世界〔神学〕について語らねばならぬ。実際上も、職務上も私には正当な資格がない。・・・ 私は他国における旅行者のように、物ごとを皮相的に観察しないかと懸念せねばならぬ。しかし外来者が、僅かしか観察してないもので、しかも本質的に重要なものに注意深いという稀なる僥倖もありうるであろう。」


「時代精神の相違を誇張することは、不変なもの、人間そのものに相応しいもの、すなわち何時の時代にも生きている当然な実在論や唯物論を看過することに誤り導く。不合理なものを信ずることに対する用意もまた不変である。かかる用意は、今日でも昔より少ないわけではない。ただこの信仰は、今日では部分的に違った内容を持つだけである。」


「現代科学は、世界像は不可能であることを知っているから、世界像を断念するという決定的な特徴を持っている。あらゆる時代が、われわれの時代でさえも、それらの通有性において、世界像の中で生活しているのに、現代科学は歴史上初めてわれわれを世界像から解放した。現代科学は、・・・ 科学は存在を認識するのではなく、科学が方法的に規定する世界内での対象を認識するのであるということを理解し、対象のその時々の制約を認識し、現代科学が生活の如何なる指導も与えることができないということを理解している。」

「もし彼〔ブルトマン〕が、本来の科学的思惟はギリシャにおいて、アルケー、すなわち世界の多様性に統一を与える根源に対する問いによって発生したと主張するならば、それは現代科学の意味を完全に誤ったものである。何故ならば、このような問いは、常に哲学的な問いであって、科学によって方法的に提唱しまた解答しうる問いでは全然ないからである。体系というものは、その時々の仮説的な前提と、統一を与える理念の指導との下でのみ科学的であるが、この理念は決して存在の全体を科学的にいい中てうるものではなく、またこの理念の問いは、それが理念に返答するための真実な方法的研究にたいして開始点となる場合にのみ科学的である。『科学的思惟における世界の統一には、科学的思惟そのものの統一が適合する』というブルトマンの命題は全くの誤りであり、その反対こそ真理である。」



ここでヤスパースは、自らは神学には部外者であると断わりつつ、神学的前提を要しない哲学者として、また科学者としては現代科学への確固たる見識を有すると自負する資格のある者として、神学者ブルトマンの「聖書の非神話化」の姿勢への見解を、他から求められて敢えて応えるというかたちで書いている。この主題的問題よりも、ここに率直に披瀝されるヤスパースの思想的判断そのものが、名言としての啓発力をもつと思うので、読者と共有すべく紹介する次第である。 ここでの「理念」概念は、カントの理念説を継ぐものであり、ぼくにとっても、我が意を得たるものとして良い確認になった。 これを機会に、優れた啓発力をもつヤスパースの言葉を、名言として紹介することを思いついた。時に触れ、気の向くままに紹介する。ヤスパースの主著群いがいの著作は、基本的に既訳を利用し、理解上おかしいと思う際は、手元にあるかぎりの原著に当たって部分訂正する。その際、ぼくが訂正した部分を一々指摘しない。





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ここでヤスパースは、ハイデガーに言及している。公の講演・著述で、われわれの哲学者がこの同時代の哲学者の思想自体にここまで具体的に言及することは例外的なことであり、他から見解を求められた必要上、成った、稀な場合であると言えよう。ヤスパースは、自らの哲学に基づいて、ハイデガーを本質的によく読み理解している。長いが、つぎに紹介しておく(それでも全部は紹介しきれない)。


「 ブルトマンは、聖書の多くの信仰対象が、むしろすべての時代の平均的な啓蒙である臆測的な科学によって破壊されると考える。しかしブルトマンは信仰を破壊するのではなく、信仰を救済しようと考えるのである。この救済は、ブルトマンが実存在論的説明と名づけるものから生ずる。そのためにブルトマンは、自ら科学的哲学と名づけるところの哲学を利用する。この哲学は、人間的現存在の、自分自身を問題とする現存在の生得的な自己理解を実行するが、その現存在とは有限で根底がなく、何処から何処へということもなく自分の現存在の中に投げ込まれ、自らの中で壊れ易く、等々として不安と憂愁との中で死に向かって生きるのである。このようなブルトマンの哲学に対しては、次のように語ることができる。
  ブルトマンの哲学は、明瞭にまた実際に、専らハイデッガーの著作『存在と時間』に関係がある。ブルトマンがこの著作を、ハイデッガーのいう意味に理解したかどうかは、この哲学の作者が決定すべきことである。私には、奇妙な関係が存在するように思われる。ハイデッガーの著作は複雑な構造を持っている。すなわち、範疇に類似した実存範疇の制定による現象学的に客観化する分析の中で、知識が、教えることのできる形で理解され、鋼の建物のように作られている。しかし全体としての意図は、ただそのような物に関する無関心な知識欲ではなくて、それは人間存在に関する根本経験であり、けっして一般妥当的なものとしての単なる人間存在に関する根本経験ではない。かかる根本経験は、一切の信仰を断念し、無に直面した決意の中で「現代」人の心に呼びかける態度を採り、不安に満ちて存在に言及する。そのことを通じて、この建物は生命と重要さとを獲得するのである。
 ハイデッガーの哲学は、様々な曖昧さを持つように思われる。この哲学は、事実上キェルケゴール、ルッター、アウグスティヌスを基にして実存哲学を考えているが、しかも同時にそれを、科学的、現象学的、客観化的にも考える。自己存在、真実存在、本来的な存在に対する訴え、様相存在の自己の受け取るべき由来の歴史性への沈潜に対する訴え、慰めなき状況における問いの真剣さに対する訴えは、その内容が一種の空虚となった真剣さに顚落しているところのかの偉大な伝統におけると同様に、そこに在るだけである。しかし学説への客観化は同時に、全体を再び無拘束的、現象学的に中性的、学ぶことのできるもの、知識として利用しうるもの、したがって哲学的には誤ったものとする。したがって精神病理学者は実存範疇を、精神病の或る種の発作や状態や持続形態に関する記述に対して利用できたのであり、またこのような仕方で可能となる多くの記述における成果が無かったわけではない。そしてそれゆえにブルトマンは実存範疇を、臆測的に科学的な哲学的認識として、聖書の文句の註釈や文句をわがものにすることに利用できるのである。この応用は、かかる哲学的思索の諸概念は、それ自体自己の由来をもともと聖書に根ざした思惟の中に持っているということによって、その負担を軽減されたのである。
  哲学をハイデッガーの著作に制限することと、私の臆測によれば、彼の「科学的」、客観化的、学説的な側面を取り立てることによってハイデッガーの著作を誤解することとは、ブルトマンにおいては実際に彼を一切の哲学から遮断することになる。・・・ ブルトマンは、彼の研究においてしばしば哲学史的な事実を報告しているが、それは人が伝達できる言葉と、歴史学的再現のための前景的な正当性の成立とに関するものであって、哲学そのものには関係がない。おおよそカント的またはプラトン的な思惟の如何なる雰囲気も、ブルトマンの心を動かしているとは思われない。ハイデッガーも同様であると思われるが(übrigens Heidegger selbst)、哲学に関するブルトマンの奇妙な理解は、十九世紀の講壇哲学の意味での科学的哲学の理解であり、あるいはヘレニズム時代の学説誌的理解としての理解である。このような基礎の上に立つハイデッガーの神学は、彼が神学に関して見解を述べる場合に、それは如何に脆弱に見えることか。(Wie brüchig müsste eine darauf begründete Theologie Heidegger erscheinen, wenn er sich dazu äussern wollte!)」



「われわれが今日、志向や形式や内容における相違にもかかわらず、それらを実存哲学として総括するところの哲学的思索の諸傾向の中で、何等か共通のものがあるとすれば、それは、消極的には科学的哲学の打破であり、積極的には一切の単なる知識とは異なった或る真剣さ(Ernst)の把握である。このことは現在、哲学的不正に再び登場を許すところの一種の区別、すなわち、実存論的(existential)分析と実存的(existentiell)思惟との区別によって隠蔽されている。」


ヤスパース自身は「実存的思惟」の立場に一貫して踏みとどまり、ハイデガーやブルトマンのように「実存」そのものをふたたび学的知の対象とするかの如き「実存論的分析」の方向には批判的でありつづける。この区別がなぜそれほど重要かという理解を深めることは、われわれ自身の全人的課題となるような問題である。


この区別が批判的に意識させるもの:
実存範疇(Existenzialien)によって、指示的標識でのみありうるものが、対象化される。
喚起し動揺させることとしてのみ意味をもつものが、一般妥当的な認識として取り扱われる。
内的行為において拘束的にのみ遂行されうるものが、無拘束に意識される。
言葉にたいする責任が、内実と作用に責任をもつことであるのではなく、科学的合理性への責任になってしまう。

 特に次のことは決定的な指摘だろう:
Man täuscht ein Wissen vor, wo alles auf jenen Grund ankommt, der nie gewusst wird und den wir seit Kierkegaard Existenz nennen.
「決して知識されず、キルケゴール以来われわれがそれを実存と呼ぶところのかの根底が問題のすべてである場合に、人は知識で欺瞞する。」