こうかんがえてみる:
(人間の)関係というものは、うまくゆかなくなるのがほんとうで、ずっとうまくいっているというのは偽りが混じってる場合である。しかしすると、偽善というものは社会にとってはなかなか大したものであるということになる。  どのような偽りがいちばん善いのか。相手において自分の理想を観、それを信仰している場合である。〔善い偽りということなら、それはもはや偽善ではない。〕

どんな相手にもぼくは無限の可能性を、つまり可能な理想性を想定し、それに敬意を払って態度をとってきた。しかし誓って言うが、そういうふうに相手に態度をとる人間など、ぼくのほかにだれもいやしなかった。だれも。みんな、相手をどうにか自分のうちで解釈しようとする者ばかりだった。例外は母のぼくにたいする信頼の仕方だけだった。ぼくを解釈しないで信頼しているのがよく直接にわかっていた。もうひとり、裕美さんの態度にもそれを感じる。

くしくもきょうは母の月命日。お母さん、裕美さんのピアノの演奏を聴いてください。




















二曲目「ハイヒール脱ぎ捨てて」が おそろしいほど、ほとんど憂鬱そのものの濃密さで迫ってくる。このひとはいったいどういうひとなのだろう。 ぼくの直に感じているとおりのひとなのだ。感じているからといって、ぼくはそこから解釈や限定などにはゆかない。 このような密度の世界は高田先生からしか感じたことはないとぼくは自白する。 この世のことなど本気でどうでもよくなる。 もともとわれわれはみな この世のことをそう真剣におもっているのではない。 寄せては返す波の周期の一断面(でのように おもっているのみである)。

このひとは、なんと孤独の重さに耐えているひとであるか。誰も識らない。識らせない。演奏のみがそれを明白に明かす。ぼくに必要なのはこの美の離脱力なのだ。音楽の完全な神秘においてそれをあたえてくれる。




これだけ内実実体のある音楽を聴かせてくれるひとをほかにしらない。

そして、やはり独奏がいい。