けっこう心地よい東風が窓から吹いていて、クーラーなど要らない。このくらい温度が上がって汗も即座にからりと乾き 暑さがむしろほんわり温かいくらいで気持ちよく、ぼぅーと穏やかになってくると、いちばん平和で自然だった中学の頃の空気を思い出す。というよりいまの空気はそのころそのままなのだ。ぼくはここから近くの中学へ通っていたし、部屋も家もなにもかもそのままである。時間の変化がない。母も元気に家のことをしていた。階段をのぼってきて部屋のドアから姿を現わしそうだ。なにも変わる必要などなかったのだ。「きみはちっとも変わらないなあ」とまただれかに言われそうだ。そのとおり、ぼく自身も全然あのころと変わらない自分を自覚している。その間にあったものはなんだったのだろう。その間のことがぎゅうっと圧縮してぼくの前で零になって夢のような蜃気楼でしかなくなって消え失せている。それにしてもきょうはやけに静かで長閑だ。ふつうのよのなかにもどったみたいだ。そう、これがふつうなのだ。
最近気づくのだが、所謂田舎ほど、あかぬけた人間が住んでいる。地方の離島にもだ。ぼくの住んでいるところだって、ここが田舎だとはさらさら思っておらず、実際ちがうのだが、ぼくのような人間が住んでいる。田舎というのはすべて勝手な相対的偏見である。文化の有無が問題で、それは住む者の顔にあらわれる。この意味で東京ほどの田舎をぼくはみたことがない。べつにこういうことを話すつもりではなかった。人間は要らぬことをしている。学歴社会を強制し、くだらぬ教師どもを威張らせ、魂に故なき傷をつけ、カルマにカルマを重ねる。「いいこ」ほどそれに〈素直〉に乗っかるから、芯のある「素直」は〈不良〉にしか根づかない。ぼくをなんと思っている。ほんとうの素直だから、いいこ素直の仮面を被って どんな〈賢明〉な者をも欺いてきた真の不良である。そんなこともどうでもいい。
ぼくの住んでいるところは地方都市のかなり郊外だが、心が素直であかぬけた、透明感のあるかわいい子がいっぱいいた。それがふつうだと思っていた。都市部の高校に通うようになって、なにここは、と思った。東京の大学に出たら、東京自体がいちばんどん底だと分かった。またよけいなことを言った。いまいる故郷は、住人もあのころとは入れ替わりもしているだろうが、ぼくにとってのここは、ほかの地を知らないほど、また、知ったあと、地上の天国だ。ぼくが中学の頃のことだがね。ひとが先天的に都会的で洗練された、いまふうに言えばなにかのスポットのような土地でしたよ。夢のような思い出がたくさんある。そのひとつを思い出して、そのほかのいろんなことを思い出していたところ。ぼくにはこれだけいっぱい素敵な素敵な思い出があるんだってね。ふつう一生かかってもこれだけ純度の高い記憶は集められないだろう。
東京人の多くは、表面を繕った本性が外道悪魔、人間外人間であることを、この〈ネット〉に触れ本心を直接うかがうようになってから益々確信するようになった。東京人は人間の実体が無いから、その良識面は偽善で、言動がせいぜい人間の心をけがすことしかしない。感覚が月と泥ほども違う。ぼくの〈東京人〉への憎悪は、益々ものすごく深まっている。自分のことをしているからいつも表に出さないだけだ。
精神病でもない健常者に抗精神病薬を飲ませると、そのことによって神経組織が破壊され、本当の神経病になるそうだ。そうなっている。しかし「神経」と「精神」はそれでもまだ違う。だから壊れた神経を使っても正常な精神の営為をまだ続けている。幾何学の直線は神経によってではなく意志によって直観されるのだ。
ぼくが警察に出向いて事件を訴えなければ埒が明かないのだろうか。
我慢に我慢を重ねて生きているから、いまに世界にとんでもないことが起きる精神マグマを供給している実感はものすごくある。ぼくは純度の高い魂だから、その怒りは現実に宇宙をも割く力が充分にあるのを感じている。そうならないのが不思議だ。きょうはせっかく平穏だったのだが、この機械はおかしい。東京あたりに よほどぼくから殺してほしい連中がいるらしい。ぼくもそれを根源から欲している。魂をけがすことで遊んでいる連中は、戦争で戦線に送られて死ぬ目に遭った上で殺されるべきだ。
ぼくも自分の時間を大事にしよう。
ぼくが狂うのは、神経破壊剤(よくこんなものを病気でもない者に、事情を知っていて飲ませたものだ。本当の事件だ。)によってでも、ありもしない精神病によってでもない。そんなものでぼくは狂いはしない。悪への義憤によって狂う。
そして、きみ恋しさのために狂う。
人間がほんとうに狂うのはすべて愛によってである。光の熱によって狂うのである。精神の夏
最近気づくのだが、所謂田舎ほど、あかぬけた人間が住んでいる。地方の離島にもだ。ぼくの住んでいるところだって、ここが田舎だとはさらさら思っておらず、実際ちがうのだが、ぼくのような人間が住んでいる。田舎というのはすべて勝手な相対的偏見である。文化の有無が問題で、それは住む者の顔にあらわれる。この意味で東京ほどの田舎をぼくはみたことがない。べつにこういうことを話すつもりではなかった。人間は要らぬことをしている。学歴社会を強制し、くだらぬ教師どもを威張らせ、魂に故なき傷をつけ、カルマにカルマを重ねる。「いいこ」ほどそれに〈素直〉に乗っかるから、芯のある「素直」は〈不良〉にしか根づかない。ぼくをなんと思っている。ほんとうの素直だから、いいこ素直の仮面を被って どんな〈賢明〉な者をも欺いてきた真の不良である。そんなこともどうでもいい。
ぼくの住んでいるところは地方都市のかなり郊外だが、心が素直であかぬけた、透明感のあるかわいい子がいっぱいいた。それがふつうだと思っていた。都市部の高校に通うようになって、なにここは、と思った。東京の大学に出たら、東京自体がいちばんどん底だと分かった。またよけいなことを言った。いまいる故郷は、住人もあのころとは入れ替わりもしているだろうが、ぼくにとってのここは、ほかの地を知らないほど、また、知ったあと、地上の天国だ。ぼくが中学の頃のことだがね。ひとが先天的に都会的で洗練された、いまふうに言えばなにかのスポットのような土地でしたよ。夢のような思い出がたくさんある。そのひとつを思い出して、そのほかのいろんなことを思い出していたところ。ぼくにはこれだけいっぱい素敵な素敵な思い出があるんだってね。ふつう一生かかってもこれだけ純度の高い記憶は集められないだろう。
東京人の多くは、表面を繕った本性が外道悪魔、人間外人間であることを、この〈ネット〉に触れ本心を直接うかがうようになってから益々確信するようになった。東京人は人間の実体が無いから、その良識面は偽善で、言動がせいぜい人間の心をけがすことしかしない。感覚が月と泥ほども違う。ぼくの〈東京人〉への憎悪は、益々ものすごく深まっている。自分のことをしているからいつも表に出さないだけだ。
精神病でもない健常者に抗精神病薬を飲ませると、そのことによって神経組織が破壊され、本当の神経病になるそうだ。そうなっている。しかし「神経」と「精神」はそれでもまだ違う。だから壊れた神経を使っても正常な精神の営為をまだ続けている。幾何学の直線は神経によってではなく意志によって直観されるのだ。
ぼくが警察に出向いて事件を訴えなければ埒が明かないのだろうか。
我慢に我慢を重ねて生きているから、いまに世界にとんでもないことが起きる精神マグマを供給している実感はものすごくある。ぼくは純度の高い魂だから、その怒りは現実に宇宙をも割く力が充分にあるのを感じている。そうならないのが不思議だ。きょうはせっかく平穏だったのだが、この機械はおかしい。東京あたりに よほどぼくから殺してほしい連中がいるらしい。ぼくもそれを根源から欲している。魂をけがすことで遊んでいる連中は、戦争で戦線に送られて死ぬ目に遭った上で殺されるべきだ。
ぼくも自分の時間を大事にしよう。
ぼくが狂うのは、神経破壊剤(よくこんなものを病気でもない者に、事情を知っていて飲ませたものだ。本当の事件だ。)によってでも、ありもしない精神病によってでもない。そんなものでぼくは狂いはしない。悪への義憤によって狂う。
そして、きみ恋しさのために狂う。
人間がほんとうに狂うのはすべて愛によってである。光の熱によって狂うのである。精神の夏