原理とはシンプルなものである。複雑多様にみえても、罰せられる罪とは、一つしかない。それは、他者を「けなす」ことだ。他者を内心で「みくびる」ことは誰でもするであろう。厳密にはこれがすでに宜しからぬ意識なのだが、それを表に出して他者の尊厳と平安をけがすことが「けなす」ことなのである。ここに至っては無事では済まない。「けなす」者は罰せられる。罰する神が実際にいようがいまいが問題ではない。罰せられるべきである。罰せられるべきものは本質においてこの一つのみである。「裁く」ことが罰せられるのは、それが「けなす」ことであるからなのは言うを俟たない。 「他者をけなす」者は、「神をけなす」者であると、究極本質を言っておこう。これが直ちにわからない者は、あまりに鈍い者である。およそ意識が外を向いている。

「けなす」者は罰せられる。その立場を問わない。






ぼくは、修道士であるという自分の状況を自覚しよう。これは美を求める者であることと一致する。彫刻をすることを院が認めれば高田先生は自身が修道院に入ったひとであることを常に思い起こさなければならない。そこから先生の心の本質を理解しなければならない。他の雑多な副事で埋めてはいけないのである。ぼくが何を言いたいか、この文化歴史的に崇拝すべき実の父の精神を公にけがした、文筆などする資格の無い子がある。一度触れ、長らく言っていないが、ぼくは許さない。

とまれ、ぼくは自分自身の自覚を記しておこうとしたのだ。美を求める者であるぼくは、状況の運命によって、この社会に在っても孤独な修道士と同じ自覚をもって、生きるよう要請されている自分に気づいた。このこと自体をぼくは自分の幸運として受け入れようと思う。ぼくは本来、一途にそうしたかった。神を求めたかった。「イミタティオ・クリスティ」に人生の初期耽溺して以来、それはぼくには内面的に親しいかぎりのものなのである。おまえはいまそれをすればよい。そのことに忽然と気づいたのである。