三郷工房

 高田博厚「ラ・カテドラル」について      沖村正康

 

 

〔つぎの筆写には、手許の図録所収の原文と照合して、思いのほか、誤字・脱字があった。私としては異例なことで、当時のじぶんの状態をはっきり思い出さない。この節の再呈示(リブログ)節では、気づいたかぎりで それを訂正しているから、そちらでお読みいただくことを勧める。(三郷工房の頁のものをそのままコピーしたのではないか。) '21.7.6〕 

 

 先生が亡くなられてまる七年、長かったのか短かったのかよく分からないが、私はブロンズの仕事をしている時でも、彫刻をしている時でも余裕のある時は、いつもブツクサと先生と対話している。生前もそうだったし、これからもずっとそうであろう。先生を通しものを考える習慣がついてしまったのは、いつの頃からか記憶にないが、若い美しいモデルと対話していた事もあった。でもその時でも先生が横に居たように思う。だから先生の事に関しては書く事がいっぱいあるはずなのだが、いざ字に変えようと思うと手に伝わってこない。頭の中には断片的な文章が渦巻いているのだが。手紙を書くのも億劫がる男なのでしかたがない。

 高田先生の代表作の一つに「ラ・カテドラル」という題名の女のトルソがある。先生三十七歳の時のもので、フランスに行って、アトリエも最初のクラマールから、モンパルナスに近いシテ・ファギエールに移し、淡得三郎と始めたガリ版刷りの(本人はコンニャク版と言っている。)「日仏通信」も軌道にのり、経済的にも落ち着いてきた頃であろう。その頃、盛岡のある画家が、高田先生のところへ遊びにいく度に先生は制作中のこの粘土の像と対峙していたそうで、その美しさに感激した事を思い出深く話していた。粘土でもそうとう時間を掛けて作ったのであろう。先生の展覧会でよくこの「カテドラル」という題の意味を聞かれるが、答えるのにとまどう。話せば長くなるし。もっとも私もその本当の意味を知ったのは、四十の時フランスへ旅行してからだが。

 パリのノートルダム。「あれはそんなにたいしたものではないよ」と先生はよく言っておられた。私もパリに入り、いざノートルダムの前の広場に立つとその重量感に圧倒され、感動した。初めて見るフランスのカテドラル。高村光太郎も「雨に打たれるカテドラル」の詩でわかるように感動したこのパリのノートルダム。これをたいしたものでないという高田博厚は少しおかしいのではないかと思った。

 やっとフランスに来れたので、フランス中の教会を見てやろうと思い、レンタカーを借り、まず先生の文章に出て来るパリの東方約二百キロのランスに向かった。パリは東京のように広くなく、ちょっと出るともう田舎風景。広大な畑、それを過ぎると森があり、やがて町や村、又森を抜けると畑、そして、森、村や町の繰り返し。畑の中の道は並木道、村や町は教会を中心にしてかたまり、何でもない教会にもつい寄ってしまう。パリか五十キロ足らずのモーという町ですでに昼になってしまった。かって経験した事もない、まるで天国を走っているような感じだった事を覚えている。あとで、分かったのだが、イル・ド・フランスの中でもあまり美しい地方ではなかったのだが。でもこの時程、デッサン(スケッチ)をしたいと思った事はなかった。モーの寺の横にあったカフェでサンドイッチをかじりつつ、何かすごい寺だなと思っていたが、こんなに寄り道ばかりしていたら、今日中にランスに着けないとなと思い、もう寄り道すまいと心してモーを出発、(この寺も歴史に出てくる立派な寺だった事を後で知る。)夕方近くやっとランスの街に到着。中世風の街並みに感動しながら街の中央に進むと、堂々とした寺が車の窓に映る。その偉容さにどぎもをぬかれ、あわてて広場の横に車を止め(こういう時は車というものは、じつにやっかりなものだ。歩いてくれば、そのまま直接にものにぶつかれるのに。)広場の正面に立つ。ああ、これがフランスのカテドラルか、これがゴチックというものか、と茫然としてしまう。静かに、実に静かに天に向かってそそり立っている。先生は『フランスから』という著書の中で、――ロダンが『フランスのカテドラル』の中で、ランスの寺を「跪いて祈る女」と言っているのは、勿論君は知っている。僕が初めてランスの寺で受けた感動は、後年ギリシャやシシリアで受けたものと同質である。春の小雨の降る日、細かい道に入って右にまがったら、不意に目の前に、雲の流れる濡れた空の下に、膝を折り胸を張り、合掌し天を仰いで若い女が祈っていた。ランスのカテドラルが・・・・・・この感じは後で飾った形容でも、先に読んだロダンの記憶でもなかった。咄嗟に「生きているもの」が打った。ぬるい雨のしづくが頬を伝い流れるに委ねて、僕は茫然と立ちすくんでいた。――と書いている。私にはその時、ただ圧倒されただけで、若い女が祈っている姿には見えなかった。茫然としてしまった事だけは同じだが。ロダンはその著書『フランスのカテドラル』の中で、斜め前から見ると、と言っているが、私には正面から見たせいか?後日鎌倉の先生のアトリエで片付けていると、菓子箱の中にフランス各地の寺の絵はがきが沢山つまっていた。たずねた寺々のものであろう。その中にランスのもあった。もう黄色く変色してしまった写真だからか、ながめていると私の見たものとはずいぶん違う。何か荒涼とした中でひっしにたたずんでいる。写真も左斜め前からのものであった。ああこれだな、ロダンも高田博厚も感じた祈る女とは、とその時そう思った。との寺は第一次世界大戦で破壊寸前までやられたらしい。これはその復旧途中の写真であろう。まわりの風景もなんとなくすさんで見える。先生の見たのもその頃であろう。私が見たのはほとんど修復され終わり、広場の石畳もきれいで、まわりの家々も美しく、平和そのものの環境。見た当時の状況で、感じ方もずいぶんと違うのではないかと思う。ロダンも十九世紀の修復をクソミソにやっつけているが、今見たらどう思うのであろう。(ロダンの『フランスの聖堂』新庄嘉章訳は帰ってから探し求めて読んだ。)尤もそんな事は後に思ったことで、ランスの聖堂の前ではただスゲエナ!と感嘆しただけである。しばらくして寺に近づいて行くと正面に素晴らしい彫刻群、聖人か、司教の像かよく分からないが、顔も美しく衣のヒダも深く優美さを秘めている。そして力強い。どれを見ても立派である。「ランスのほほえみ」で有名な女性像も何体かある。フランスにもこんな立派な彫刻の歴史があったのかと驚く。中に入ると外から見た時よりもいっそう高く感じる天井、髪の毛が逆立ち天井へ吸い込まれていくようだ。列柱が枝分れしカーブし天井を支える。こんなものがよく石で出来るものだ。フト右側をみると側廊に壁掛けがずらりと並んでいる。パリのクリューニュ美術館で傑作を見た目には、それ程美しいものと思わなかったが、青を基調としたものである。ロダンはこれを絶賛している。もっとていねいに見てくればよかったのだが。何しろこの寺の偉容さと正面の彫刻群で、私の頭はいっぱいになってしまっていた。もう宿を探さねばと思いつつ(フランス語のフも出来ない私には一番苦手な作業で、なたフランスの春は九時過ぎても日が暮れないので遅くなり、以後時々宿を取りそこねる。)でも立去りがたく、前のカフェでコーヒーを飲みながらこの寺を眺めていたことを思い出す。翌日再びのこの寺へ来ると道をはさんだ右横にこの寺の博物館というものがあり、柱や彫刻の断片が、沢山展示されていた。何かギリシャを彷彿とさせるようで、イタリアルネッサンス前にこんなものがあったのかと再度驚く。やがてロダン、ブルテルという天才を生んだ源が、ここにあったのだと確信した。

 高田先生も「フランスのカテドラル」という文章の中で後にイタリアを旅行しとのもこのゴール人の美を確かめるためだとのべている。

 その後、アミアン、ボーヴェイ、モネが四季を描いたルーアン、ステンドグラスの美しい立派な彫刻群にかこまれたシャルトル、宝石箱のようなポワティエ、山の中に突然あるコンク、ブールデルやアングルの故郷モントーバンのレンガ造り、その近くの見る者の心をゆさぶるモアサック、その裏の美しい回廊、南の山の中の修道院、中央山塊やブルゴーニュ地方のロマネスク等々、いったいいくつの寺をまわったか数えてないが、あまり一度に沢山回ると消化不良を起こすようで、帰って自分の撮った写真がどこの寺かわからないのが出てくる。でもその地方地方の風景の美しさ、街の美しさ、又日曜日のミサの時のオルガンや合唱、又ある時は、南の方の修道院つき教会でドアを開けると美しい男の合唱の声がした。見ると僧侶が沢山集まり、何か儀式をやっている様子。入ってはまずいのかと、前の方をみると地元の人が五、六人座っている。私も一番後ろの席にそっと座って見ていた。司会者のような二人の若い僧が、一人で或いは二人で問い掛けるような歌を唱うと、左右両側の僧侶達が、それぞれまた一緒に答えるような合唱、その声の澄んだ美しさ。かつて日本で聞いたウィーン合唱団より美しく、厚みもある。年配の人も多いのにその透明な声はどう作られるのだろうか。多分どなったり、怒ったり、はしゃいで大声をあげたりした事が一度もない人たちではないのか。とにかくその美しい声をバックに中央の奥では、赤い法衣をつけた年配の僧が、高い天井に向かって両手を上げて仰いだり、祈ったり跪づいたり、その静かな動作が実に美しく、ここには神が在るのだと実感した。そこに何時間いたのか、時の感覚というものがまったくなくなり、そこを出てからどうしたのかも覚えていない。日本に帰り、あの寺はどの辺りだったのかと地図を見ても、その前後をすっかり忘れており分からない。その一日が空白になってしまったようで夢でもみていたのかと思った。途中、これがグレゴリオ聖歌というものだろうと、帰ってから色々テープなどを求めて聞いたが、この美しさにはどれもおよばなかった。また何かの折に、グレゴリオ聖歌を聞くとこの日を思い出す。

 沢山の寺々を訪ねたが、時々パリに戻り一休み、念のためノートルダム寺院の前に立つが、なんとなく腑抜けに見えてくる。正面の彫刻群も精細がない。最初の感動はいったい何であったのだろう。と思いつつ、やはり高田博厚の言った事は本当だったのだなと感じ始める。でも何度か繰り返し見て行くうちに、この寺に妙に親しみをおぼえる。斜め後ろのセーヌ側から見たそのパットレス(飛梁アーチ)の美しさ、狭いラセン階段をグルグル回りながら登るとテラスでの怪獣との出会い、そこから見るパリの風景(高田先生は、右下に見える病院に入院中のアミーと互いに手を振り合いながらここで心の会話をする。)もっと上の鐘楼に登ると、ドッシリとした鉛葺きの丸屋根、そこから見える細い塔(棒)の上にじっと立っているブロンズ像、緑青ですっかり青くなって、傑作とは思わないが、それはそれで美しい。パリにはやはり、このノートルダムがとても合ってるように思う。先生がアトリエに持っていたフランスの寺々の絵はがきと共にフランス全土の地図があった。その地図に鉛筆で線が引かれている。先生が廻った印であろう。ノルマンディや、ブルターニュの方面は線が錯綜し地図が見えない程だ。実によく廻ったものである。高村光太郎にもフランスの寺々の美しさを書き送った事であろう。「彼が今度来たら、自分の車で良い寺を案内使用と思っていたのだ。」と言っていた。それも第二次世界大戦で実現できず、「光太郎からもらった手紙はこんなにあったのだが。」と左手の親指と人差し指を目いっぱいに開く。

 これらの沢山の手紙類(ダンボール箱二ツ)は戦時中ドイツに避難している間に、当時のフランス政府に没収されてしまったという。パリに帰り、掛け合ったのだが、返してくれなかったという。先生が光太郎に送った手紙も、光太郎のアトリエの火事でもうない。せめてフランス政府のどこかに、当時の混乱を乗り越えて残っていてくれたらと願う。

 ロダンにも「ラ・カテドラル」と題された、二人の手が組み合わさった作品がある。力のぬけた手がもつれあう美しいもので、パリのロダン美術館に行くとガラスケースの中に大切に保管されている。石膏のままで直付けされたところもある。多分石に直すための原型だろう。「ラ・カテドラル」と題名が、ぴったりくるのに驚く。著書『フランスのカテドラル』で解るように、フランスの中の寺々を熟知し愛しきっているロダンだからこそ出来る作品と題名に脱帽する。

 高田先生も「フランスのカテドラル」の文章中、このロダンの著書を絶賛している。そして自らは、パリ・シテ島のサント・シャペルに集約し、フランスのカテドラルに頭を下げている。

 先生の女のトルソ「ラ・カテドラル」も、日本の一人の青年がその存在を知り、驚き、打たれる。そんな中で誕生した。だからといってその印象を女のトルソで表そうと作り始めたのではない。モデルを見ながらデッサンし、そのモデルからトルソを選び作り始める。彫刻とは何か、を考え続けながら。そしてある時、フト題名は「ラ・カテドラル」にしようと思ったのであろう。ちなみに、「このモデルの顔は、『女優のマスク』(一九三四)なんだよ」とアトリエで言っていた。

 作品と題名。作者にとっては、題名は作品に付随するものだ。この作品が、ただの「女のトルソ」でも、先生の代表作になっただろう。けれでも作品に合った良い題名が与えられると、見る人にとってより多くの親しみが増し想像をふくらます事が出来る。この女のトルソとカテドラルという題名、互いに違和感なく一体となっている感じは、高田博厚の中に、フランスの美というものが住みつき、感覚化されているからであると思う。「ラ・カテドラル」は、これからもずっと「フランスの美の香り」放ち続けることであろう。

(初出:『新しき村』第四六巻第九号、一九九四年九月)

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わたしのこのような状態ゆえ、三郷工房様ともごぶさたしているので、謝意をこめて、 沖村正康先生の名筆をここに全文(そのまま)紹介させていただきました。 古川 拝  

 

 

 

 

 

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