本気で殺したいやつが多すぎる(こういう気持になる経験は、生れてからぼくにはなかった)。特に、こういう状態に陥ったぼくを嘲弄し、ぼくの魂の純粋さを言葉でけがす者を、いっさいのじょうだん無く殺そうと思う。 警察はぼくを監視してほしい。
身体・神経組織が生れたままの状態では全然ないように故意にさせられた。
この異変とともに、周囲の人間達まで激変して元の心ではない。
この二重苦をくりかえし言うのはいやだ。
物理的・霊的に、自然な変化ではない。
無限怒
無限怒
無限怒
よわまるどころではない
どんなに冷静沈着で、ジョーク(冗句)すらとばすときでも、無限怒がいまのぼくの根底にはぼくの自己同一性を維持し証するものとして渦巻いている。ぼくがこのことを常に言うのがいやで言わないでいるからといって、この無限怒が不変に持続していることを忘れてもらってはこまる。ぼくに触れたいかなる者もこの怒りからのがれられない。無視して笑っていられる者はひとりもいない。無拘束な魂の裏切りの享楽者共よ、どんなに装っても、おまえたちの本性はとっくに見定めている。
怒りの深さこそは心情の深さである。それは真に優しき慈悲と同一の顔をしている。それが憂国にもむすびつく。石井一昌氏の表情にぼくはそれをまざまざとみる。「憂い」は、「怒り」と「優しさ」より成る。
ぼくは、自分が受けた不条理を意識することにおいて、「人間の魂」が受けた不条理を意識している。それゆえ怒りが根源的であるのだ。またそれは人間そのものへの慈悲であるのだ。怒りを捨てる者に真の慈悲心は無い。
俺から感謝教に逃げた者よ、それはおまえがそれだけの者だからだ。