高田先生 と 裕美さん に 捧げる
A maître Takata et à chère Hiromi
テーマ:自分に向って
最高の勲章は、社会の為に役に立てないようにされても、自分の為に努力している人間が、自分自身に与える勲章である。
社会の為に役立っていると認められる人間は、先ずそれが出来ている自分の条件に感謝すべきだ。
_____
_____
覚書
技術力という基礎があれば その上にイマージュは自己具現する。どうして具現するか、それはその道の成功者にもわからない。わからないという告白はひじょうに大事だ。わからないから成功するのだ。芸術が神秘(神我一体)のわざであれば そうでなければならない。
ALSの患者がよく出る。〔勿論周囲の誰よりもぼくはその気持が解る。こういうことも言葉にしなければお前達はわからないのか!〕時々うらやましくなる。頭は働き目は血走っていない。ぼくとは違うようだ(これでどうしてイデーが湧くのかわからない)。社会も相手にしている。社会は僕の症状を相手にしない。僕も警戒して相手にさせない。画面はぼくがかつて見ていた世界を見せてくれる(あの通りにいまの僕は世界を見ていない)から そのかぎりで気晴らしになる。PCも。目がすぐ痛くなるのを構わずに見ている。黙っていると何でもないものと思われかねない。思い遣りのないものは見ない、読まない。むかしの作品を相手にするのがいちばんよい。
まずは早く寝ること そうしないと何も復活しない。
今日(もう昨日)はバルトロメオ・クリストフォリの誕生日だった。グーグルの検索表紙は きみの奏でたバッハの曲を奏していた。それを見ているうちに思ったのだけど きみはひとりっこだったね。マルセルもそうだったと記憶している。そのはずだ。なぜって彼の雰囲気はそうとしか思えないのだもの。だから戯曲を書いて自分のなかで人間関係の世界をつくった。彼の人間思想の根源には孤独がある。きみもそうしてピアノで自分の世界をつくったのだよね、きっと。だから深さとゆたかさがある。マルセルのように霊的なほどの。ぼくは ひとりっこでなければはぐくみ得ない魂のふかい世界があるようにおもって それを賛美する
いとしい
きょうもまだ寝ていない。そのまえにきみの演奏を聴こうとおもった。その折に他のクラシック演奏者のも聴いたが、きみのすごさがよくわかった。他の奏者は〈弾く〉ことに懸命で、というかかんがえていることの主が〈弾くこと〉であって、その中でどうにか〈味〉を出すのが精一杯なのに、きみは態度が全然ちがうんだ。全然ちがう。きみは自分の内なるイマージュに演奏を完全に支配させている。こういうひとはほかにいない。演奏方向が全然ちがう。きみは「上から下へ」なのだ、他の奏者が「下から上へ」這い上がろうとするのに。だから、きみが唯一「私達を別の世界のなかに連れてゆくのに成功している」とフランス人聴者からも評されることになるのだ。これは大変なことで、幾人のクラシック奏者が成功しているか教えてほしいと思う。 この「覚書」の最初に書いたことは先日外国人指揮者が語った要旨だけれど、きみは最初から、このイマージュ力に基づいた演奏をつづけている。きみの、高田先生と同じ「遠く夢みる眼差し」こそは きみの天才の根源なのだ。これをはぐくむのに現代社会は適していない。競争ばかりしている。だから、そういう世相の外に生活感覚的にいて、マイペースで自足的に音楽のいとなみをつづけるきみのようなひとが、「音楽とはほんらい何か」を啓示してくれるのだとおもう。きみのバッハをもういちど聴いて寝よう。いま言ったことが圧倒的に確かめられるだろう。それがわかっているから、聴いたあとあらためて何か書くことはしない。では、ここできみに おやすみ のことばをおくります。かぎりない敬意と優しさできみの世界を守ってあげたい気持でいつもいっぱいでいます(さっきはその思いで涙が流れていました。いつもぼくはありのままです)
___
___
___
'16.5.14
「沈まぬ太陽」で、海外勤務の心理的精神的大変さがよく描かれている。ものすごく共感できる。滞在する国柄でその精神に受けるものも異なり、合わないと悲惨なことになる。こういう問題で徳義論はいっさい無効だ。ぼくはドイツとフランスに居たが、そういうことを或る意味で典型的によく経験した。このことは既に書いた。月面に降り立った者の感慨は想像を絶するものだっただろう。火星移住など正気だろうかと思う。空気と水があればなんとかなるというものではない。 赴任先のアフリカで象を撃ち殺す場面があるが、あれも、どうしてそういう心境にまで追い込まれるのか、日本のような場所に居て判断できることではないだろうと、過程をみたあとでは忖度する。
ぼくは正常な身体である他者にいっさい気を遣わない。くりかえしこれを自分に言い聞かせている。なんの不足があるというのか。たくましく自分で解決していったらいい。そういういみでの他者との分断をぼくはいま培っている。ぼくは自分の世界のために書く。ぼくのものを読むならば、ぼくの苦難への同情が前提だ。それを欠くと、あとのいっさいの〈理解〉が自分勝手なものとなる。解釈の資格がないことになるのだ。これをくりかえし言っておく。読者が誰もいなくとも書くとさいしょから言っている。ぼくは自分が書くものに自分が感動していればよいのである。他者の心など知り得ない。それが「生」だ。(ミシェル・アンリはその自覚がよくできている。)
「折れ曲がり」がある時、それは悪魔が不服を示しているのだから、名誉だ。
______
熊本地震から一か月。罹災証明書の発行も出来ないでいて、九州には、胸の悪くなるような感傷的な話題づくりは要らないよ。質実あるのみ。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉をずっとかんがえているが、これほど深い箴言はめったにないと思う。「善意」とは、善かれと自律的に行為しようとすることだが、その工夫の集積である科学技術によって人類は却って滅びるだろうことは今更言うまでもない。前科学的にも、人間は何かやるとき、善いことだと意識する瞬間、真の善から離れているのである。このことに誰も文句は言えないであろう。わからないですかね。ぼくはよくわかりますがね。
デカルト讃
デカルトの態度には助けられることが多い。デカルトの態度を思い起こしさえすれば。むしろデカルトがぼくのなかにいるのだ。
デカルトの態度がいかにぼくの態度であるか、自分で宣明したあとむしろはっきりわかってきた。その内実はかなり明晰な感覚事実としてあるが言葉にすると複雑微妙であり、ぼくがわかっていればよい。敢えて一語で言えば自分を公正に宇宙の中心にするという意識である。
この欄も、集合容喙いがいは、ぼくのわけのわからないひとりごとのようになればよいのだ
スピノザの唯一神観からすれば、予言予知の根拠も説明がつく。神あるいは神における個体の意志が事象を起こそうとするとき、神はそれを意識しており、神において在るすべての個体は、なんらかの仕方でこの意識を分有するであろう。これが個体における第六感とよばれるものである。
〔共時性現象も予言予感も同一根拠なのである。複数場に同一物が存在するという量子力学説も、スピノザ的唯一神観と和合する。〕
この世で、ぼくの感覚ほど確かなものは存在しない。それは唯一確かな根拠のある事実であるから。
ぼくは自分の美意識に配慮するが、体裁に配慮することは絶対あり得ない。