ぼくは、ぼくの「主体性」(この欄で述べている)の立場が、ミシェル・アンリ(Michel Henry, 1922.1.10 - 2002.7.3)の絶対内在の生の立場と多く重なるだろうと思っている。しかしそれなら、ぼくのほうが高田博厚、マルセルと共に、もっと深い内実性をもって内的生と形而上的次元とに沈潜する路をゆくだろう。現代は、「各々の者がそれ自身で価値を持たず、社会を成就させる運動のために各自が受け持つ役割によってだけ価値を有し、この社会運動によってだけ正当化され或いは断罪される。・・《全体》だけが重要であり、この《全体》は構成員に暴力を加えることも許される。そして、自分自身でなにものかであることを諦めない者たちを骨抜きにする。恐怖政治と粛清・・」がまかりとおる世の中なのである(引用はアンリの言葉)。「各々の者がそれ自身で価値を持つ」世界、「自分自身でなにものかであること」が承認される世界、そういう世界を、ぼくは志向する。「恐怖政治と粛清」―ぼくが受けてきた―をゆるさない。「包括的な内的主体性」の境位を、ぼくはずっと言っている。これはアンリの思想と相当重なる。このあたりで本腰を入れなければならない。



参照: 形而上的アンティミスム ( 21 )
総論 ―形而上的アンティミスムの理念 10 没世間性における主体性と間主体性 / 信仰の純粋矛盾





ミシェル・アンリは、前大戦時の対独地下抵抗運動における「身を隠す」こと、すなわち「常に、考えていること、為すことを、隠さなければならない」という体験によって、ぼくのいう「主体性の没世間性」の境位にほぼ等しいと思われる生の在りかたに目醒め、これを根源的な生様態として体得したようである。


敵殺を敢行する怒りと平穏とが自己の内で並存する生を生きることは、決然とした決意を要したはずである。(ぼくもそれを生きている。)




わからないのは、どうしてぼくがこういう悲惨な状態に陥っているのに、それを感知しているのに、そのうえぼくの魂を踏みつける言動ができるかなあ、ということだ。だから悪魔の憑依としかぼくにはおもえない。いま、ぼくが本気で殺したいと思っている人間が沢山いる。こういう状態に追い込まれなければ、ぼくもこれほどの本気の憎悪と殺意は抱かないのだが。



そうそう、いま、いろんな方面の人間どもが、途方もなく馬鹿にみえる。この国は、技術はあっても、まとめ役と総合判断・本質判断役が、途方もなく馬鹿である。外国と比べて。原理というものが人間になく、トップに至るまでの人間環境に深刻な問題がある。暗君があふれている。


ほんとうの読者がそうそういるわけがない。