ぼくは霊であり魂であり、いまも、また永遠に魂である。















他者を知らずして他者を語るな。他者を他者の前で判断する者、「誰其は何故堕落したか」などと平気で論ずる者、おまえたちは正真正銘の地獄へゆけ。そういうことでホワイトイーグルを語ってもアダムスキーを論じても駄目なのである。








そういう地獄ゆきの者でなくとも、確信をもって語っていらっしゃるひとがいるが、どうもいまのぼくには、大言壮語がすぎるように思われるのである。ぼくがおかしいのであろうか。いやいやそういうことはあるまい。神の道 仏の道をあんまり確信と熱をもって語りすぎるのだ。もうぼくは自分のうちに確固としたものができてしまった。ひとの言葉も、自分の表現に使うためである。それいじょうは引かれない。


〔 まえからずっと感じていたことだが、所謂求道者というものは、自分自身になりきっていない。自分自身といえば、堕落した否定すべき自我しか見出さないから、しゃにむにそういう自我引力から脱出すべく、全推進力を挙げてそのための努力の生を重ねているのが、彼等なのではないか。彼等の熱意はそのための、その危機意識からのものであって、だから業(ごう)はむしろ人一倍深いのが彼等なのだ。彼等は、求道者であるというまさにそのことによって、他律的であり、それゆえに「実践性」が、「奉仕行為」というかたちで全面に出る生を生きている。「道」を志向するまさにそのことによって、「道」という観念(想念)に拠ることによって、他律的なのである。「神の法 仏の法」をしきりに強調し意識するまさにそのことによって、他律的であり、もっといえば自己疎外的なのである。これは彼等の段階においては或る意味仕方のないことである。いまだ彼等の「自己」は積極的意味の内実で満たされたものではなく、負の業がもっぱらであるものであることによって、謂わば空無なものであるからである。そのように、自己の真の充実を知ることにかんしては人後に落ちるのに、切羽詰まった求道心があるぶんだけ、そして負の業があるぶんだけ、他より優越しようというそれこそ悪い我欲は人一倍強く、それは、業の主要因である「比較心」(心をもっともけがす意識様態)にもとづくものである。彼等は一見誠実と真摯と精神性の権化のようであるが、実際したしくつき合うと最も不快で安らがず、こちらが自己疎外的になってしまうような者達である。そして、こちらが覚えるその不快を、当然のこととはいえ、(自分のほんとうに充実した自己経験の不在から)まったく察することができず、逆に、猛烈に自分の誠実性を主張して、こちらに変な考えがあるからだ、と批判攻撃してくる。「自己を大事にする」という感覚がまるでわからず、〈どういう秘密にすべき自己価値があるのだ〉と否定する態度で問うてくる。求道するほど業に業を重ね、罪に罪、他者には不快に不快を重ねて、〈自分は罪だけの存在〉と告白するが、精神が片輪だからそれで突っ走るのみで、その頂点で転落し果てる。註釈はこれでよい。ぼくは、神仏法を知る(意識する)だけで自己疎外だと思っている。自分になりきり歩むことが真実の「路」であり、路傍にはさまざまな花も気づかれ、風に木立も香る。自分の感覚を信じて、道の標識ばかり見ず、〈業〉にこだわらず、自分自身を純粋に生ききり、「ああ、こういう感覚、そちらでは法として意識してらっしゃるのですか」、と言ってすますようでありたい。〕





自分の思索の妨げにならぬよう、ぼく一個の意志はぼくのなかに納めた。








いまのよで、こころから信頼できるひとはふたりしかいない。ぼくの素直な感覚によれば。きみとぼくだ


これは愛情からひいき目に言っているのではない。その逆です。感覚はおどろくほど精密で客観的なものだ。ぼくの愛情でこの感覚にもとづかないものはない

たとえどんな人間的傾向性があろうとも、その奥に光っている透明なものの信頼さを、ぼくは きみとぼく自身において くるいなく感じているということなのです