一個のひとの死は、そのつど全宇宙の消滅という終末である



ぼくはどうして谷口がこれほど弱気なのかわからない  宇宙の法則はたしかに気にくわない。ぼくはぼくの認めたぼくの内的な筋によって生きる。そして宇宙の則のほうをぼくのに合わせようと意志する。それが神法にふさわしい。ぼくは霊であるからかならずそれをやる。「宇宙の深化」はそういうものとしてのみ果たされる。

ぼくはしばしば直観する、霊は永遠存在し消滅しない、宇宙が消えても、と。世間臆見と逆が真である。これがデカルト精神。


宇宙は、人間の霊による再創造を待っている  




「人間的自己」(121頁*)ということで、谷口とぼくはちがうものを思惟している。彼は否定されるべき人為的意識をかんがえているが、ぼくはとうにそういう自己段階は卒業しているのである。彼の言うことはわかる。何世代もまえの自己であり ぼくはその感覚さえとおい記憶の痕跡としてしか持っていない。


 「嵐は止んだ。雷雨は過ぎ去った。……主とヨブとは互いに理解し、互いに和解した。……ヨブは祝福され、すべては繰り返して与えられた。それを人は反復と呼ぶのである。
 ・・・・・・(〔キルケゴール〕『反復』)」 120頁


ヤスパースも述べたところの「神との格闘」を敢行しない者は、謂わば信仰の保守主義者であり、「自由の信仰」に貢献しない。神との真の関係に入ることもじつはないだろう。自主的奴隷はそれだけの扱いしかうけない。「神の法」を固定したものとしてとらえてはならない。人間的愛の自己主張によって「深化」させるべきものである。「神」はそれを期待している。



(*この箇所にぼくは細かくつぎのように書きこんでいる。記念にここに写しておこう〔薬害によるいまの視力で、ぼくはもう特大ルーペを当てなくては自分で嘗て書いた文字も読むことができない【読書は強度の遠視用眼鏡を使う。件の薬服用後、身体全体の異変に伴って突発的に極度遠視になった。前日まで眼鏡なしで普通に読めており、自然的変化ではあり得ない〕。:
 堕罪以前の状態に、この世に於て瞬間的になる(帰る)というのが、反復といういみなのか。それならば、反復ということばで、時間直線上にある世界の出来事や、そういう地平に関する記憶の再生を考えてはならない。反復によって生ずべき状態の記憶が予めあるのでもあるまい。むしろ反復は自分の生において人生初めての経験であり、しかも、その経験の中ではじめて、この状態はかつてあった状態の反復なのだと理解するようなものだろう。いわゆる「新生」が「再生」(Wiedergeburt)とも言われるゆえんであろう。「新生」=「反復」。  新しい自分を求めているという意識は、その求めが本来の自己への衝動によって発動されているのであれば、本来の自分を求めているわけであり、これは、すでに、もとあった筈の自分という観念を必然的に伴うだろう。従って、本来の自分を欲するという意識は、反復を欲するという意識である。)






「・・・なにかを読んでいるそのしばしの間が、ぼくにとって鎮静剤の作用を果たしてくれる・・・
 ぼくはいま、ぼくのうちに荒れている不安と焦燥とをたとえ一時的にでも鎮めてくれるなにかの鎮静剤に頼るほか、この毎日の生活をかたちだけでも支えていく手段のもはやないことを、ひしと感じる。・・・
 ぼくはもう長いこと学校にも出ていないし、また友人たちにも会っていない。学校に出たり、友人たちに会ったりすることが、もはや苦痛なのだ。世話になった友人たちにたいしてぼくはもはや不実の友でしかないし、学問的にも日常的にも恩を受けた先生にたいしてもぼくはすでに忘恩の弟子でしかなくなってしまっているのだ。ぼくは悲しいと思う。しかしただひそかに赦しを願うほかぼくにはどうしようもないのだ。ぼくはいまこのぼくの生をかたちだけでも支えることで精一杯なのだ。」 125-126頁



こういう苦痛の記録でしか本人にはないものが、しかしどうしてこんなにぼくにとって沈静作用があるのだろうか。理由はもうこの事実のなかにあらわれている。純粋な真実しか感じないからだ。作者は「本質」に集中しきっている。真実はすでにそれだけで慰めであり、また、愛であるようにおもう。では、ほかの多くのものはそうではないのか、然り、あまりにも虚偽粉飾だからである。  彼(谷口)には、自分がすでに充分に強く強靭かつ純粋で、品格の証であり、それじたい「愛」に価する価値実体であることが、わからないのだろうか。きみの価値を認める者がここにあるよ!




「 早く終わってしまうのが恐ろしいような気持ちで、できるだけゆっくりと、しかしここずうっと続けてやってきたヘフディングの翻訳がそろそろ終わりに近づいてきたので、今度はなにに頼ろうかと新しい鎮静剤を考えはじめていた二週間ほど前、思いがけなく、ほとんど一年半ぶりでX子からの便りがとどいた。神戸から帰ってきて、再び東京の母上のもとで暮らすことになった、ということであった。それを読んだとき、ぼくの心に、なにか感激に近いものが走った。
 ……
 そしておとといの午後おそく、もう本当に長い間会うことのなかったX子と、冬日のもれる林のなかを歩いた。

 かさかさと鳴る落葉を踏みながら、枯草の匂いのする林のなかの道を、ほとんど言葉を交わすこともなく、ぼくたちはゆっくり歩いていた。
 ときどき立ちどまっては、木立の間に見える遙かな秩父の山山を仰いだ。
 そしてまたときどき、林のなかの日だまりに、ぼくたちは腰をおろした。その日だまりの冬日の暖かさと枯草の匂いとは、言いしれぬ懐しさを湛えていた。
 ……そうだ、ぼくたちは以前にはよくこうやって、この武蔵野の林のなかの道や、野なかの道などを、歩きまわったものだ……。だがぼくも長いこと病床にあったり、東京にいなかったりして、それにX子も神戸へいってしまったりして、いつとはなしにこの習慣もとだえたまま、なんと多くの月日が過ぎ去ったことか!
 ……ぼくは穏やかな冬日のそのぬくもりのなかで、自分のうちに長いこと眠っていたX子との出会いのかずかずの記憶が、少しずつ目覚めはじめているのを感じていた。
 けれどもまた、いまこんな姿で生きることに敗れ、疲れはててしまっているぼくにとって、いまここにいるX子はいったいなんなのであろうか?……ぼくのうちに、かすかな不安と恐れとがうずまいていた……。
 「疲れたかい?」
 「いいえ」
 「もう少し歩こうか?」
 「ええ」
 ぼくたちは立ちあがって、また林のなかを歩きだした。
 落葉を踏む音だけが林のなかを伝わり、ぼくたちは黙ったまま、歩いていた。
 しばらく歩いて、ふと顔をあげると、冬の日が静かに燃えたまま、林のなかにかすかな日の匂いを残して、はや彼方の山波に沈むところであった。
 ぼくたちは足をとめて、それが山の向こうに沈みきるまで、黙って見送っていた。
 空気が急に冷たくなっていった。
 「寒くないかい?」
 「いいえ、わたくしは大丈夫。でも、あなたはお体にさわるでしょう?」
 ぼくは無言のまま、かすかにくびを横にふった。そしてなおそこに立ちつくして、暮れていく山山を見ていた。そのときぼくは静かな感動をぼくのうちに感じていたのだ。それは、ぼくの病気のことや、ぼくの中途半端ないまの生活や、またぼくの内面のただれをよく知りながら、なにひとつ問いただそうとはせず、なにひとつ将来のことなどを尋ねようともせず、このままのぼくを赦し、無言のうちにぼくの苦悶を感じとり、黙ってぼくを受け入れてくれている彼女の姿を、ぼくはそこに実感したからなのだ。
 ……   」



 127-130頁