谷口とぼくとのちがいは、自己肯定感の有無ではないかとおもっている。ぼくは根源的に自己肯定的で、これはぼくが良心の責めを意識するときでもまったく微動だにしない。ぼくが自己否定に傾くことは、根源的にありえないのである。だから、「自然」に感応するときもその感動は「こういう美を感じる自分のすばらしさ」という自己確認と直接にむすびついて、毫も「自然にくらべて自分の無意味さ」という意識を生むことは、けっしてかんがえられもしないのである。ぼくにおいては自己肯定的超越のみがあり得、自己否定的超越などありえない。気になることは、ここでぼくと正反対の谷口は、「〈人間〉の無意味さ」と、〈自分〉の感情を普遍化する飛躍をしていることで、これは〈弱者意識の傲慢〉であるとぼくは思う。「自分でさえ自分の無意味を感じるのだから」という傲慢意識がありありである。〈傲慢〉の自覚がない。こういう意識は宗教的求道者にありふれるものである。〔最後のこの言い方は谷口のようなひとにはちょっときのどくだとおもった。過去の不快経験が思い出され、ぼくの意識が混合を起した。〕

断定できることは、谷口は、ぼくや高田博厚、ヤスパースのような「神」や「超越者」の意識には至らないだろうということである。これは、ぼくや高田、ヤスパースのほうが傲慢だということではまったくなく、逆に、ぼくらのほうが真に謙虚なのである。〈人間無意味〉派のほうがつねに傲慢であることを、ぼくの人間経験は教えている。虚勢の偽りの自己肯定と、根源的な真の自己肯定とがある。その間に、自己否定的であるがゆえに飛躍的必然的に人間否定的な態度がある。およそ否定することが、傲慢の本質である。大いなるものの前での自己肯定しか、真に謙虚でありうる在りかたはない。谷口の人為社会の否定と、偽りの人間肯定の否定の意味は完全にぼくは了解し肯定する。それらの人為性は根源的な「人間」を見出していないからである。谷口へのぼくの好感はそのままである。彼が虚勢の自己肯定者でも、観念的意識的な人間否定者でもないからである。すべては彼の「自分自身」の実感の表白であり、人間一般の否定の表現も、その真質をぼくはよく素直に感じるからである。彼における〈飛躍判断の傲慢〉は、ぼくを腹立たせる性質のものではない。





これは別のことであるが、どんなに良心的で誠実な人柄が感ぜられる作者の著作であっても、どこかに断定の傲慢つまり判断上の虚偽がみられるものであり、だからと作者の人間性を否定することはないが、自分の受容枠で内容を濾過しなければならない。これはどんな宗教的達観者の著作についても、むしろそれだからこそ注意せねばならないことである。これはぼくの人生経験そのものがぼくに教えたことである。とくに、何でも自分の業の堆積のせいにしてしまうかんがえにたいし、このことは言われねばならない。いつも言うが、それなら外国から家族が拉致された被害者のところへ赴き、業の結果だから自分達に責任がある、自己責任で引き受けなさい、と説得すればよいのだが、著作のなかで勇ましいその種の断定を表明していても、それができる〈聖者〉は皆無だろう。あとは推して知るべしである。これは、主体的な実存的決意の内実の表現である言表を、客観性の次元へ変換して断定しているから、ひとつの信仰の表明ではあっても客観的知とはなりえない事柄への自覚を素朴に欠いているから起る無理矛盾なのである。 こういうことをしっかりヤスパースは言っているが、その意義はいつも新鮮であり重要であるとおもう。





ふたたび「愛と死の思想」に戻る。つぎの二頁の文は紹介する価値があると思うから。作者の精神問題をよく凝縮して率直に告白している。純粋に作者個人の事柄でありながら、それだからこそ正真正銘に普遍的な現代人の意識を示している。こういう意識に覚醒している作者はまだ救われているというべきか。大方は虚構の世界を虚構とも感ぜず〈生活〉しているだけだろう(それさえ難しいのが現実世相であることは分っているが)。

「自分の生活がまったく偶然でしかないさまざまの虚構の上で営まれている、という不安がぼくを襲いはじめてから、もう何年になるであろうか?
 この何年間か、ぼくは、不安と焦燥とにさいなまれながら、むしろそれゆえにであろう、ひたすら人間であることの根柢から生きようと願い、存在そのものから生きたいと願い続けてきた。そして、そのような生が実現されなければこのごく外面的な日常生活のあれこれをきめたり営んだりすることもすでに不可能なのだということを、ぼくは身をもって味わってきた。
 しかしぼくは、いまだにぼく自身の本来の《生》をはじめることができないままで、そしてますますつのっていくばかりの不安のなかで、ここにこうやっているしかないのである。
 しかし、その不安と焦燥とがぼくを右往左往させ、ぼくをあちこちに彷徨させていることを、ぼくは知っているのであり、その不安と焦燥とが・・・ぼくのうちに理由のない嘔吐感を催させ、目まいを起こさせ、ぼくを不潔恐怖症にし、不眠症にしていることも、ぼくは知っているのである。
 そればかりではなく、ぼくはもう大分まえから、ぼくにとって根本的に必要なのは、たんに世間的な生活の安定でもまたたんに知識や認識や思想でもなく、それはただ新しい生命の充填であり、生きることの深い感動なのだということも、知ってはいるのである。
 ぼくは、そのような生命の充填や生きることの感動を《自然》から得ようと試みた。しかし《自然》はそのような生命を伝達してはくれないし、そのような生きることの感動を引き起こしてもくれないのである。
 自然はぼくにとってますます懐しく、美しいのである。しかし、自然がぼくにとってこれほど懐しく、美しく感じられるのは、芥川竜之介の言ったように、それがぼくのすでに末期の目に映るからかもしれないと思うのだ。・・・
 ぼくはまた、〔ニーチェの積極的〕ニヒリズムに生きることの望みをかけた。しかしぼくはいま、純粋に主体の世界に生き切るということがぼくにとっては不可能なまでにむずかしい、と思わずにはいられない。ぼくは、ぼく自身が、自分で意識しているよりももっと深部まで、現代の人為的文化に浸蝕されてしまっていることを、感じないわけにはいかないのである。」 87-88頁





共経験(ぼくの集合容喙経験ではないはずだが、彼がここまでぼくと同一の絶対的孤立の経験をしていたかと、鮮烈な不思議さとともに慰めを覚える):

「河原はまさに暮れようとしていた。ただあかあかと燃えてまさに沈もうとしていた落日を見て、ぼくは涙をこらえることができなかった。
 遠くには冬の連山が暮明のうちに静かに走っていた。そして、糸のように涸れて細くなった冬の河水が、音もなく河床を辿っていた。
 暮れていこうとするその河原は、まさに静謐な調和にみちみちているようであった。
 けれども、この外界の調和のあまりの静けさのために、ぼくはかえってぼくだけがその調和の局外者であることを思い知らされた感じだった。
 自分だけが除けものにされているという淋しさと不安とがぼくを苦しめた。
 ぼくは、ぼくがすでにどのようにも動くことのできないまま、このままの状態でさらにじっと堪えつづけ、待ちつづけることはもはや不可能だと感じ、烈しい不安と焦燥とに駆られてこのままむしろ河原の石になることを願った。」 110-111頁

「・・・そこを歩いていた人たちのだれ一人も、ぼくの存在にまったく気づいていないようなのだ。
 一瞬ぼくは、ぼくの眼の前に展開する風景が、ぼくの知らないどこか遠い町の姿を映し出した蜃気楼ではないか、と思った。けれども、その一瞬の後、ぼくは、はっと思いあたった。実は、ぼくの方がこの現実の世界から遮断されてしまい、この現実の世界からどこか他の処へ飛び出してしまっているのだ・・・・・・。
 ・・・ぼくは、透明なガラスの球の中にいて、その透明なガラスの壁を一所懸命うちがわから叩いていたことを覚えている・・・」 111-112頁

「かつてはぼくも、この人生が空しいのならその空しさの通りに生きようとした。だが、少なくとも生命の流動がなければその空しさの通りにも生きられないことを、ぼくは知った。」 113頁


信仰
「この頃また気をとりなおして、渾身の力を盡す思いで、聖書を読んでいる。とくに、福音書を読み、パウロ書簡を読み、ヨブ記を読んでいる。
 もちろんぼくは、たんに彼岸化し、道徳化し制度化し、権威主義化し、総じて人為化したキリスト教に期待を寄せようとしたのではない。
 かつて、過去のある時期まで、ぼくもそのようないわゆるキリスト教の世界に住んではいた。けれども当時のぼくを振り返えると、ぼくはいま、そこに住んでひとりよがりの振る舞いをしていたぼくのごう慢さと、そのくせ人間としての貧困な姿とに、堪えがたいほどの恥ずかしさを感じるだけである。できることならば、ぼくの過去からその時期のぼくを抹殺したいとすら思うほどである。
 しかしぼくはいま、まったく新たな気持ちとして、信仰の秘義を知りたいと切望しているのだ。・・・
 ぼくにいまわかっていることは、信仰とはもはやたんなる彼岸への希望でもなく、またたんに制度や権威への服従でもなく、またたんに教理や教義を信じるということでもなく、またけっして人間であることの断念でもない、ということである。
 信仰とは、・・・無償の生命の充填なのだ。信仰とは何かを信じるということではなく、むしろぼくたちのうちに生起するこのような出来事なのだと、ぼくは思う。そして、その出来事が、ぼくたちの内側から発するのではないにもかかわらず、それがぼくたちの内側に生起するということに、信仰の秘義があるのだ信仰とはぼくたちに贈られることによってぼくたちの内側に生じる出来事なのだ。
 ・・・
 それゆえ、ぼくたちが自分の意志で勝手に信じるとか信じないとか言うことは、本来無意味なのだ。・・・」 114-115頁



ぼくはせっせとこの谷口さんの文章を写しているが、まずぼくが納得するもののみをぼくのために写しているのであることはもちろんである。奉仕のためではない。真の奉仕は自分の納得することのみをやるのであって、したがって奉仕という意識はそこには指導的なものとして働いていない。働いていればそれは偽善であり、奉仕の報いを期しているのであればそれこそエゴイズムであって、真の自己愛から厳しく区別されるべきものである。




方法的「反デカルト」
口には出さぬが谷口氏は現代の実存思想の観点に影響されて「反デカルト」なのである。人間を自然から切り離した精神の観念化が、抽象的な人為的世界を生じさせ、自分もその毒に浸透されているとしている。まったく同じ見解をぼくも一時期「生きて」いた。自分の思考形態そのものを、自分の深い欲求によって転換しようとするとき、ひとはその「情熱」そのものによってどうしても一方向に「偏る」(「人間は情熱があるかぎり偏る」というすばらしい名言を最近聞いた)。そのとき、「別の観方もある」などと熱のない「公平」な態度を同時に表明することは、自分に正直であろうとすれば出来ないのだ。たとえその偏りを他者から指摘批判されようとも、甘んじて受ける覚悟でなければならない。彼がデカルトの名を率直に出さないのは高度な賢明さが働いている。ぼくは率直にこの名を出して批判もされた。ぼくの場合は確信犯的にわざとそうしたのである。それがぼくの「方法」であるとの自覚さえ抱いて。だから、「懐疑」の途上で「神」さえ否定したデカルトが再び「コギト」から「神」を認めたように、ぼくもいま自分を「カルテジアン」として押し出している。無論、〈デカルト主義〉ということではなく、その精神態度をぼくのものとして我有化することの決意表明としてである。いま、ぼくのなかで、「パスカルとデカルト」は矛盾していない。

 4. 23