よのなかにいちばんやくだっているものがあるとしたらこのぼくの欄である

〔これはぼくの率直かつ謙虚な、すなわち根源的な実感である。比較意識以前の確信の表現としてとっていただいて結構である。〕 



わけのわからない多数の読者ではなく、数は少なくとも、自分のためになるようこの欄を読む「我有化する」読者がいればよい。
〔我有化: 或る思想を真に自分のものとするとは、その思想によって自分自身の根源が目覚めて運動しだすことである。〕









 謙遜の陰から傲慢がみえすいている者が多い。しかしこれは、真実が察知できないというよりも、真実に傷つけられた弱者の、真実への復讐らしいということが、ぼくにもやっと推せられるようになった。弱者は弱者なりの、強者になりたいための抜け道を見出したいらしい。その方策が彼等の学問であり、世間引用である。彼等自身、自分の弱さをじつは分っているのである。


 そうかと思うと、この者はそのとき悪魔に憑依されたのではないかと感ずる言動をする者等もいる。自覚がしっかりしていないからそうなるのだ。






自分が尊敬に値する人間だとほんとうに思っている者は、他者に気に入られることに意を用いない、という意味のことをヴォーヴナルグは言っているが、ぼくが補充するなら、謙虚な実感があるゆえに自分に信頼する者、と言いたい。真実は、高さであるよりもむしろ深さである。それも、素直な深さでなければならない。(〈深さ〉をみせつけようとする見苦しさは虚栄心である。)


〔「偶然の一致」にしては出来すぎているという経験を、きっと多くの人々がしているのではないだろうか。普段でも起る、「共時性」(シンクロニシティ)という現象である。ぼくの状況が文字通り異常になる前、まったく普通だったときも、「おや?」と思わざるをえない事がときどきあった。いまの異常状況は、この共時性現象が、意図性を明確に察知できる仕方で洪水のように起るようになった状況、と言える。 このことをいま書いたのは、状況が普通であったときに経験した或る一事象を思いだしたからである。それを記すことをさっきから思っているのだが、こういうことである: 宗教的求道者で、その性格を忌み嫌い、ぼくが絶縁した者がいた。こういう者はそのうち高慢の絶頂で転落して死ぬのではないかと思って(心中イメージして)いた。ずっと後、ある日ほとんど恣意的にぼくが思いつきで、めずらしくラジオのスイッチを入れると、まさにちょうどその時、寸時も違わずに、ニュースで、その者の居住地と名を読み上げ、屋根の雪かき作業中に屋根から転落して死亡したことを告げた。丁寧に読み上げたことから、確かにその者であることは間違いなかった。〕








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しばらくPC操作をやめて自分の時間を楽しみたいと思っています(いまの気持としては)。ずっと疲れが溜っているので。ぼくの性というのだろうか、やりはじめるといい加減なことができないので、細かなところまで根をつめて疲れるのです。昼はうるさいので夜寝るのがもったいなかったりもして。

訪れてくださるぶんには感謝しています。




 

 

 

 
 
 
 

 

 

 
 
 



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つまらんものを偶然みたから、処理しておこうと思う。「正しさへのこだわりを捨てる」ことを言っていた者がいた。「自分が正しい」という思いへのこだわりをすてると自由か楽になるという発想だったと思う。およそこういうかんがえは現実をみていない。ならば北朝鮮を非難している拉致被害者にそれを言えるかと云えばよい。そもそも必死になってなにかを訴えているとき、自分が正しいかという問いを入れる余地はない。根源から訴えているときと、自尊心が動機となっているときでは、次元がちがう。それを心理学的に一律に論ずるから、それが反撥をまねくのだ。こういう幼稚な発想は更に云う意味がない。発想の根本が地に着いていない。「無責任」の一語に尽きる。さんざん言っていることだが、自分の具体的歴史性をまず明かすことだ。思想の検証はそれからである。精霊や天使を気どってもなんにもならない。この者は「名」をしょっちゅう変更するようで、知らずにみてしまった。悪い者ではないのだが、いちどやってはならぬことをした。それいらいかかわらない。そういう気持に、「自分は正しい」という思いの要素は無い。



この例にかぎらず、表面が良さそうだと思ってたまに気晴らしに他の欄にゆくと、すぐもうでたらめな恣意的内容のものに接して、後悔することが多い。自分に集中しているときと同様、休んでいるときも、PC散歩は慎もう。休みにならない。〔それ以前に、題名が不真面目でもぼくは読まない。不真面目とは、真剣であるべき主題を遊戯化している印象を与えるものだ。例を挙げることは、当人達がショックを受けるからばかりでなく、このぼくの欄の品格が許さない。〕
ほんとうのいみでの自分の秩序の自覚に達している者などめったにいない。秩序とは表面的で形式的なものではない。内的な、自分の振幅を入れるものである。「絶対的意識」を読まれたならそれがわかろう。 11日 



〔勝つための、勝つと分かっている勝負はしない。真の義憤のみで動く。(上のこととは別のことである。)〕


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さて、読者は、ぼくが〈批判〉する者達と比して、ぼく自身はどういう境にあると思うだろうか。異質な存在(の諸々)を思考の内で並置することは およそいかなる意味もほんらいもたないが、ぼくの正直な実感として、ぼく自身の境はまったくなにものともくらべられないものとしてそれじたいのうちに安(やす)らっている、ということをいいうるのみである。だからぼくじしんにおこったことも、まったくどくとくのものであって、いかなるいみでも他と比較できない、と感じている。そもそもぼくの意識はその正確さが他とまるでちがう。異常な力を発揮できるひと、そのほかもいるだろうが、意識の正確さ、純度では、ぼくにはるかに劣るのである。なにによってもぼくは量られる存在ではない。それは、ぼくがその本質においては まったくひとりで存在しているからである。いかなる思想によってもぼくは存在しているのではない。(現存在が関係性においてあることと、本質のありかたとを混同しないことである。) ぼくの正直な思いでは、ぼくほど自然で地についたたしかさで存在しているものはほかにいないのである。ほかは、〈自分ではないもの〉におおかれすくなかれとりつかれているとぼくは察知している。ぼくのこの自然さはぼくにとってあたりまえのことなので、ほかにいいようがない。現存在としてはほかとの関係性においてあるので、へんな〈事件〉にまきこまれたが、それはそれだけのことで、ぼくの本質とはかんけいないのである。はっきりいおう、ぼくの状況の〈異変〉は、ぼくのいわゆる〈かるま〉とはかんけいないのである。そういう〈かるま〉はすくなくともわたしにはなにか疎遠なものにおもえる。わたしに〈かるま〉があるのか(と問うことじたい)もわたしには疎遠である。わたしはそれをけすことができる。わたしは、それをじぶんにおいて〈ぜろ〉にも〈むげんだい〉にもすることができる。ふたつの〈判定〉をぼくはじぶんのすこしの意識操作でうけた(それを量れるひとがいる)。いまの異変も、おなじような〈被害者〉がまじめないみでおおくいることをしっている。〈病〉でなく社会がおかしいのである。その経緯は個々それぞれであるから、そういういみでくらべられないと言った。ほんらいなら連帯すべきひとびとである。ひとこと註として記しておく。ぼくは、じぶんの本質自覚とは別個の社会問題としてきびしく追及してゆくつもりだ。


(きもちがすなおになってくるとひらがなをつかいたくなる。それいがいのいみはありません)


 

 

 

 

ことしもさいてくれてありがとう






 

 

 

 
 

これはどういう花? はなびらはないですがあじわいぶかいですね




(10-11)

〔自分の時間を楽しみたいなどといえるようになったのも、この仕事を積み重ねてきたからなのだよなあ〕