(前節からの続き)
良心は、ゆえに、自ら根源であって、更なるいかなる審判者をも自らの上に持たない。さもなければ、良心は、ひとつの欺瞞的な言葉にすぎない。誰か、ひとつの権威 を告白承認し、様々な決断の際にこの権威に、自分の良心と並ぶものとして伺いを立てる者がいて、この者が、つぎのことを注意されるとしよう: 「あなたは、それでは、どんな自由な良心も自らにおいて認めていないのだ、あなたがその権威に優越を許すのであれば」、と。そうすると彼はこう答えることもあろう: 「実際にはいかなる選択行為もあるわけではありません。私にとっても自分の良心が優先するのです。神の声が心のなかで語るとき、私はこの声のほうに従うのであって、教会の言葉には従いません」、と。こういう原則、これは異端者のひとつの定義であろうが、そのうえ、それ自体欺瞞的である。良心の声それ自体がすでに神の声だと思念されるならば、私は神に関係していないのである。しかし神の声が、祈りを越えてゆく途上での超自然的指示であるというなら、そこではほんとうは私は自分の良心を働かせているのである。そして、客観的なものとして与えられる神の指示なるものの真理性が、再び、客観的な組織制度である教会によって判定されるのは、充分に意味のあることとなる。神の声を直接に知るという者は、そのことによって同時に、疑問視されない権威を告白承認しているのである。そうなると、本来の意味での矛盾〔の経験〕は不可能であり、ただ、二つの客観性が相争うという不幸が起こりうるのみである。この抗争においては、「個人的に聞かれた、主観にとっての声」が、「数千年の経験を自らに蔵している教会の客観的な指示」に向かい合って、相対化されることになるだろう。
しかし、神の声はそれ自体としては、ただ私を打ち倒すのみであるにちがいなく、そのような声を直接に聞くということは、良心の声を聞くことではないだろう。事後的な吟味においては全くの幻覚として概念把握されるかもしれない、ひとつの体験の真理性を、私は、服従を求める他の声のために、放棄することも許されようが、しかし、良心の声の真理性を放棄することは許されない。客観的で直接的な指示内容は、むしろそれ自体、良心による吟味に服するものである。「人は、自らの教会の言葉に反しても、神の声に従おうと欲する」、という命題は、したがって、いかなる意味でも、自立的な実存の自由の表現として受けとられてはならない。というのは、それは、そのような主観的な経験によりも、客観的な教会のほうに、ずっとたくさんの信頼を寄せることだからである。そしてこの場合、主観的経験はいかなる信頼をも得ていないのである。この命題をもって、権威に対する服従に反抗して、良心の自由を救ったと、もし人が思うならば、その人は自分を欺いているのである。良心は、神の声ではないのであり、私の存在の真理の根源が、動かされかつ動いていることである。この私の存在の真理は、私を、隣人〔としての他実存〕との限界なき交わりに入らせることができるものであるが、しかし、個別的かつ相対的な事象や世界の秩序においてのほかでは、服従には赴かないのである。
なぜなら、人がつぎのように言おうとするなら、それはただひとつのごまかし(Trick)にすぎないのである: 「良心にもとづいて人は自分の良心を断念するのだ、自分の良心というものは欺瞞的な主観性に従属しているのだから」、と。真実はただつぎのことなのである: 我々は子供のときから一生を通して、広い領域において、様々な権威に服しており、この権威は我々の歴史的実体の諸形式となっているのである。しかし、私にとって本質的なものが問題となる紛糾状態の際には、自己存在に決定させるのは、良心なのであって、権威的な要求ではないのである。権威の承認の歴史的なありかたにおいては、絶対的に妥当するような権威というものは、すでに揚棄されているのである。
FIN
