自分の「良心」にもとづいて相手を内面的に断定することは、たとえ相手が、仮に殺人を為そうとしているときであっても、「内面に踏み込んだ断定」としては、けっして為してはならない。なぜなら、誰も完全な人間として相手から認められているのではなく、相手にとって「権威」であることはできないからである。しかしこういうことはほとんどまったく意識されることはない。むしろ、そういう「断定」が相手の前で、相手にたいして為されたとき、相手のなかで、自分を「断定」する者にたいしてほんとうに「愛」があるかどうかが知られる。つまり、自分を断定した者をほんとうに「受け入れて」いるかどうかが、相手のなかで判然とする。「壁」を感じ「反発」が生じるならば、断定した者にたいし愛がほんとうにはないのである。こうして、ほんとうに「受け入れて」いる者はごくわずかであることがわかる。うぬぼれないで「良心からの断定」は控えるべきである。「交渉にほかならない交際の決裂」が、たとえ表面には現れなくとも、心底において、本人しか感知しない仕方で、生じるだけである。ほんとうに愛していない者が自分の聖域に土足で踏み込むことを、誰も許しはしない。




ヤスパースの「愛しつつの闘争」を軽々しく〈日本的〉にとっている軽薄者があまりに多い。ヤスパースの深みに達せず、かつ、ヤスパースの「諫止」も意識にとどめることなく、「愛しながらの闘争」を宣言〈敢行〉する阿呆に、どうか読者はならないように。