羞恥には心理学的と実存的との二つがある(と Jaspers は言う)。
前者は比較相対的なもので、多数他者の鏡に映った、他者の日常的な眼に映った自分の言動を、他者の観点から意識する際の、否定的感情である。
もしそういうものを僕が、価値受容的に意識したら、ぼくの書ける内容、ぼくの書き方、殆どできなくなるだろう。
そういう心理学的、つまり一般的観点からの、だからぼく自身の根源的観点からのものではない、そういう、心理学的と言われる観点からの配慮を全部自分の内で軽蔑し拒否して、はじめからそういう一般的なものを、ぼくの根源にこそ従って突破し、純粋にぼくの魂の声を刻もうという意識で、はじめから書いている。ただぼくの魂の真実から乖離した内容と書き方だけはすまい、と、それだけに自分の羞恥感覚をとぎすませながら。
 だから、ぼくの書く内容と書き方は、最初から、確信犯的に、意識して、「魂的」(根源的)であるだけ、「可能的反社会性」をもつことを、覚悟するとともに意図している。その「突破」的態度そのもののなかに、魂の内的秩序が統制的に働き、振幅がありながらも全体と芯において調和的で、根源的な規範的枠を越えないことのみを自分に期待しながら。
 そのようなものとしてぼくの書くものは読むべきであって、世間一般の観点から判じてはならない。つねに魂の真実への根源的誠実さの現れの内容と、その現れの仕方のみに、意を用いながら読むべきである。








若年の頃こそ、男女ともに、純粋に愛になりきることができない。恋人にたいしてまで、知識や思想で優越しようとする。そういう話題を入れる。愛が可哀想だ。若いから、自分の内容に自信がもてないので、内容を代用しようとする。「きみがすきだ」「あなたがすき」でどうしていけないの? なぜそれいじょうのものをかんがえるの? その感情よりすばらしいもの、幸福にしてくれるものはどこにもないのに。窮極的に単純におなりなさい。「学」はね、すきなひとのまえでは、しまっておくものですよ。そういうもの何の武器にもなりはしないのだから。人生を長く生きても得る結論は最初からわかっている。いま持っているもの、それより価値あるものはないのだから。すきなひとと、単純なことを話しなよ。かっこつけるんじゃない。きのうのラムネおいしかったね、それでいいんだ。不幸にならないようにね。取り繕わないようにね。