〔いまの状態だから感じるのかもしれないけれど、ドイツ語というのはどうしてこう疲れるのだろう。妙な疲れ方をしますね。原典を追っているぼくとしてはそうですよ。めちゃくちゃ意識をあっちこっちに引っ張り回されている。ドイツ語の構文というのはそうなんですよね。書き手のアイデアで殆ど恣意的にそれができる。語順が自由だから予測ができない分 疲れるのです。筆者の主観に従わねばならない。落ち着かない。この「運動の自由」がこの言語の特徴でしょう。未開の森(シュヴァルツヴァルト?)をさまようようですね。安定しない。早く出たい。――以前はこういう感じはなかったのですが、状態のせいもあるでしょうが、感覚が素直になってきたのでしょうね。――ぼくの性分として、やっている間はほかのことが手につかない【子供の頃プラモデルを作っていた時がそうだった。あの組み立て遊びをやっている感じ。それは遊びだから、はやく遊びから出て自分の現実に戻りたいというのが健全な感覚でしょう。ヤスパースが言うように、思想としての哲学に関わるのも「遊び」(シュピール)だから、そこから早く出ることが落ち着くこと。それを学問教の精神で、さも真剣なことをやっているように自己暗示するのは欺瞞だろう。真剣になるべきは、自分の現実に徹することにのみあり、そこにのみ真の創造がある。-----以前、ヤスパースがそう言うのに、その理念に魅せられて、やはり「真剣」に学問として取り組んでいたし、それしかなかった。いまは、「距離をとる」感覚を会得している。】。もうすこしなのだが。疲れているので休む。明日にしよう。30日23時〕
3. 31
II. 270-272
――全翻訳本文中、〔 〕内はすべて翻訳者(古川)の補充あるいは説明。――
d) 良心の諸段階。
倫理的真理の諸々の形成形式というものがあり、この形成諸形式は、良心が史実的(historisch)にこれを承認するところのものであり、そして良心に、一般的規則に従って決断することを許すところのものであるが、この倫理的真理の形成諸形式は、しかしやはり自らの源泉と自己吟味の力とを、その時々に、根源的良心からのみ得るのである。この根源的良心は、様々な限界に面しつつ歴史的(geschichtlich)に決断を為す良心であり、自らにたいするいかなる判決をも承認せず、それどころか、「真であるもの」を自ら語るところのものである。良心は把握し難きものであるが、良心が隠蔽されずに純粋に保たれる処では、良心は過つことはない。
〔「史実的」(historisch)と「歴史的」(geschichtlich)の質の相違を了解しなければならない。前者は、実存の根源と切り離されて理解されうるが、後者は必ず実存の根源に根ざすものとして理解されなければならない。〕
良心が現象する様々な段階がある。良心は、限界というものに臨む場合にのみ、無制約的で根源的であるが、時間現存在(Zeitdasein)のなかでは、固定化し安定させることが必要である。この固定化を良心は、それが良心の根源において良心と矛盾しないかぎりで、従属的規則に至るまでも許す。しかし私はそれら諸形態のいかなるものにも、安らぐことはできない。良心は、外部的な絶対命令によっても、意識一般の次元で洞察される普遍妥当的法則によっても、満足させられない。また、束の間の直接的感情によっても、「私はともかくそう欲するのだ」という恣意によっても、満足させられない。さらに、私の経験的存在者としての全体性の意識によっても、現存在次元での目的を達成するために状況が要求するところのものによっても、良心は満足させられない。これらすべてのものは相対的な形式の様々として在るのであって、これらの形式のなかに、現存在として、良心は自らを〔謂わば〕翻訳している〔にすぎない〕のである。
良心はあらゆる客観性によって眠り込まされる。すなわち、諸々の因習と道徳法則によって、制度と社会によって、眠り込まされるのである。良心は、大衆によって認可されることはない。良心は、己れこそ無制約的なものであると〔詐称〕するあらゆる客観的秩序によって、拒絶される。自分自身によって立つ自立的良心は、それゆえ、他の人々によって感知される場合には、むしろ、憎しみの対象となるのである。良心は、「多数」によっては、ただ共有的なものとしてのみ承認されるが、ということはすなわち、まったく承認されないということである。したがって、現実に根源的な良心というものは、世界の内では、自らを示してはならないのである。そして同時に、良心は、自らが過って陥るかもしれない真ならざる要請行為にたいして、「沈黙すること」によって、自らを防御しなければならないのである。というのも、世界の内での行為というものは、世界の内で妥当する根拠によって正当化されねばならないからである。良心を引き合いに出すことは、感情を引き合いに出すことと同様、効無きことだろう。良心を正当化の根拠とすることは、意思疎通を求める交渉を決裂させることにほかならない。こういう場で自分の良心を引き合いに出すことは、無条件の闘争布告の表現を意味する。良心が、開放的で、それゆえ客観的に固定化されない法廷であるのは、ただ、単独的個人から単独的個人への実存的交わりにおいてのみである。この交わりにおいては、良心が存念を言表し、問いを発するが、それは、他者と共に自らの真理へと至るためなのである。
〔ヤスパースの良識が冴えわたっていますね。〕
e) 善なる良心。
「善なる良心」(das gute Gewissen)というものは、その時々の根源や瞬間として可能ではあるが、しかし、欺瞞なしには、「存立するもの」(Bestand)として可能ではない。というのは、良心は、ただ「限界」においてのみ純粋に把握されるものであるゆえ、「責め」(Schuld)について誤魔化されることがないからである。〔ヤスパースの「限界状況」論において、「個々の限界状況」のひとつとして、「Schuld」(シュルト)がある。これは宗教的意味での「罪責」ではなく、我々の独立的思惟において内的に意識されるものであり、「負い目」とも訳されることがある。〕「個別的な事柄における〔その事柄に関するかぎりでの〕善なる良心」というものは、ひとつの合理主義的な自己欺瞞であって、その時々に悟性にとって正当であることを為したということをもって、自らに満足するものである。そこにおいては、「暗黒であるが現実であるもの」は、すべて無視されている。「全体における〔全体に関して〕善なる良心」というものは不可能である。全体というものはけっして純粋に現われることはないのだから。良心から為される行為は、「責め」を克服するものではない。この「責め」〔の意識〕は、むしろ、「存在というものがその現象においては和合しない」(Nichtstimmen in der Erscheinung des Seins)こと〔の意識〕としてとどまりつづけるものである。この「責め」は、けっして消えることはない「良心の刺(Stachel)」なのである。
〔d) e) ここまで〕
3. 31
II. 270-272
――全翻訳本文中、〔 〕内はすべて翻訳者(古川)の補充あるいは説明。――
d) 良心の諸段階。
倫理的真理の諸々の形成形式というものがあり、この形成諸形式は、良心が史実的(historisch)にこれを承認するところのものであり、そして良心に、一般的規則に従って決断することを許すところのものであるが、この倫理的真理の形成諸形式は、しかしやはり自らの源泉と自己吟味の力とを、その時々に、根源的良心からのみ得るのである。この根源的良心は、様々な限界に面しつつ歴史的(geschichtlich)に決断を為す良心であり、自らにたいするいかなる判決をも承認せず、それどころか、「真であるもの」を自ら語るところのものである。良心は把握し難きものであるが、良心が隠蔽されずに純粋に保たれる処では、良心は過つことはない。
〔「史実的」(historisch)と「歴史的」(geschichtlich)の質の相違を了解しなければならない。前者は、実存の根源と切り離されて理解されうるが、後者は必ず実存の根源に根ざすものとして理解されなければならない。〕
良心が現象する様々な段階がある。良心は、限界というものに臨む場合にのみ、無制約的で根源的であるが、時間現存在(Zeitdasein)のなかでは、固定化し安定させることが必要である。この固定化を良心は、それが良心の根源において良心と矛盾しないかぎりで、従属的規則に至るまでも許す。しかし私はそれら諸形態のいかなるものにも、安らぐことはできない。良心は、外部的な絶対命令によっても、意識一般の次元で洞察される普遍妥当的法則によっても、満足させられない。また、束の間の直接的感情によっても、「私はともかくそう欲するのだ」という恣意によっても、満足させられない。さらに、私の経験的存在者としての全体性の意識によっても、現存在次元での目的を達成するために状況が要求するところのものによっても、良心は満足させられない。これらすべてのものは相対的な形式の様々として在るのであって、これらの形式のなかに、現存在として、良心は自らを〔謂わば〕翻訳している〔にすぎない〕のである。
良心はあらゆる客観性によって眠り込まされる。すなわち、諸々の因習と道徳法則によって、制度と社会によって、眠り込まされるのである。良心は、大衆によって認可されることはない。良心は、己れこそ無制約的なものであると〔詐称〕するあらゆる客観的秩序によって、拒絶される。自分自身によって立つ自立的良心は、それゆえ、他の人々によって感知される場合には、むしろ、憎しみの対象となるのである。良心は、「多数」によっては、ただ共有的なものとしてのみ承認されるが、ということはすなわち、まったく承認されないということである。したがって、現実に根源的な良心というものは、世界の内では、自らを示してはならないのである。そして同時に、良心は、自らが過って陥るかもしれない真ならざる要請行為にたいして、「沈黙すること」によって、自らを防御しなければならないのである。というのも、世界の内での行為というものは、世界の内で妥当する根拠によって正当化されねばならないからである。良心を引き合いに出すことは、感情を引き合いに出すことと同様、効無きことだろう。良心を正当化の根拠とすることは、意思疎通を求める交渉を決裂させることにほかならない。こういう場で自分の良心を引き合いに出すことは、無条件の闘争布告の表現を意味する。良心が、開放的で、それゆえ客観的に固定化されない法廷であるのは、ただ、単独的個人から単独的個人への実存的交わりにおいてのみである。この交わりにおいては、良心が存念を言表し、問いを発するが、それは、他者と共に自らの真理へと至るためなのである。
〔ヤスパースの良識が冴えわたっていますね。〕
e) 善なる良心。
「善なる良心」(das gute Gewissen)というものは、その時々の根源や瞬間として可能ではあるが、しかし、欺瞞なしには、「存立するもの」(Bestand)として可能ではない。というのは、良心は、ただ「限界」においてのみ純粋に把握されるものであるゆえ、「責め」(Schuld)について誤魔化されることがないからである。〔ヤスパースの「限界状況」論において、「個々の限界状況」のひとつとして、「Schuld」(シュルト)がある。これは宗教的意味での「罪責」ではなく、我々の独立的思惟において内的に意識されるものであり、「負い目」とも訳されることがある。〕「個別的な事柄における〔その事柄に関するかぎりでの〕善なる良心」というものは、ひとつの合理主義的な自己欺瞞であって、その時々に悟性にとって正当であることを為したということをもって、自らに満足するものである。そこにおいては、「暗黒であるが現実であるもの」は、すべて無視されている。「全体における〔全体に関して〕善なる良心」というものは不可能である。全体というものはけっして純粋に現われることはないのだから。良心から為される行為は、「責め」を克服するものではない。この「責め」〔の意識〕は、むしろ、「存在というものがその現象においては和合しない」(Nichtstimmen in der Erscheinung des Seins)こと〔の意識〕としてとどまりつづけるものである。この「責め」は、けっして消えることはない「良心の刺(Stachel)」なのである。
〔d) e) ここまで〕