何度でも言うが、客観的に悪魔は存在する。デカルトが、真理を見出すための方法的懐疑において、「邪悪な欺く霊」を想定したのは、けっしてただの空想的思いつきではありえない。現実的に存在するのである。これを認めなければ或る種の精神事象の謎はけっして説明できないだろう。 悪魔は、戦略上、ひとの精神的至らなさを契機とする攻め方をし、あたかも、生ずる事象がその「至らなさ」のせいであるかのように思い込ませようとする、〈神の与える試練〉気取りを演じるが、これこそ「いじめ」の本質であり、毅然と軽蔑感情で悪魔に対するべきことは、現代社会においても自覚に達した認識である。この認識の適用範囲はすこぶる広く大きい。
〔別件ですが、機械のメンテナンスのため、すこしおやすみをいただくことになるでしょう。「絶対的意識」の節目まではできそうです。〕〔機械の不具合、自分で直ったようです。原因は判らないですが、ぼくの念波かも。念波で(リモコンなしで)TVのスイッチが入ったこともあったから。〕
別件
「カラマーゾフ」の「大審問官」のくだりを読んだとき、どうしてこういう主題が読み手と世間でインパクトを受けるのかと思った。これは大衆にとっての信仰の問題であって、目覚めた個人はこの網にはかからない。しかし、これとは直接しないだろうが、民衆はすべて高尚に生きることはない。だから民衆には寛容でなければならばいというのは、落ち着く良いかんがえだと思う。そう思ったらふと気持が楽になった。 民衆とはところでどのくらいまでをいうのだろう。国をまとめるというのは民衆をまとめるということだ。そのための神話が必要になる。「大審問官」と関係なくはない。しかしぼくに問題なのはいつも、目覚めた個はどうして生きるのかということだ。そういう意味ではヤスパースの哲学的信仰は、少数の覚醒者の信仰なのだろうか。高田博厚が、「文化をつくるのはいつも少数者だ」という、その少数者だ。その少数のみが「人間」だということではないだろうが、ヤスパースのいう「実存」は、現実にはそのような、「実現された人間」という少数者であり、「可能的実存」としては万人であって、その観点から尊重される。
高田博厚の「人間」と ヤスパースの「実存」。これは同じである。