生涯、「本来的(実存的)な交わり」を探求敢行したヤスパースは、結果的に非常に孤独だった、と弟子のザーナーは告げている。しかしこれは、ヤスパースの失点的逆説ではない(そう〈評する〉向きは、自分の足元を、顧みることが出来るなら顧みたほうがよい)。最初、意気投合した「仲」でも、ほんとうに誠実であれば、生き生きした過程を経た後、決裂することのほうが、「交わり」の敢行の真の果実ではないか。関係の持続そのものは、いかなる人間的真実性の証ともならないどころか逆の場合が多い。人間関係の〈多さ〉を誇るとき、それしか誇れないか、生存のための有用性のゆえである。「ますます自分自身となる」ことが、「決裂」の痛みを伴うならば、それあってこそこれが生じ得た「交わり」の成果はあったのである。何を惜しんでいるのか。
 人間関係、人間、というものを、根本的に錯覚しているか、いまだ知らないのではないか。




いまの世で、やすやすと友を見いだせるほど、僕はやすっぽくない。「朋、遠方より来る」の「遠方」は空間的意味ばかりではない。



率直に言っておくが、ぼくからみれば、幼稚園児が大人顔で大人を批判する次元の者が多すぎる。そういう者達ばかりであった事が、信じられない。なにかこう、生きている根本次元が違った。忖度心と 相手への意志的期待があって 当時言わなかっただけだ。
 それをしらずに、よく好き放題の言動と断定をしていた者達の無恥が、信じられない。「思想」が「人間」を片輪にするおびただしい例を ぼくは経験してきている。

 「絶対的意識」の真理に気づいたほうがよい (ヤスパース学徒自身が正しく気づいていない)


 「絶対的意識」の真理は、真に内的感覚に目覚めることである


 (これをデカルト的に「サンス」-良識-と言ってもよいが、むしろこう言って気取らぬほうがよい)