「人間がもっとも深い美を生むときは、人間の意識と感覚が分裂せず、煩雑化せず、”自然”のように調和している素朴状態、直截で一元的に帰結しうる精神状態にあるときである」


本文文章紹介(13-15頁) 」、すなわち この主題欄「高田博厚「偉大な芸術家たち」」の前節で、強調し記した高田先生の言葉である。
 これを要約して、「深化するとは一元化すること」 と、きょうの節の題にした。普通なら、〈進歩するとは単純となること〉、とも云うであろう。そう云ってもなかなかの皮肉である。〈進歩〉は、普通は〈複雑高度化〉することと見做されているようだから。機械文明ならそうである。しかし 「人間文化」は逆である。〈進歩〉という語がすでに適切性にかんして疑わしい。それを、〈単純〉化することと定義するのが、これを〈複雑化〉の対極と見做すかぎりで、すでに逆説を示唆する皮肉なのである。この対極性を矯正して、ここでの〈単純化〉の真意に迫る言葉が、「一元化」という、高田先生の言葉なのである。「サンプリシテ」の適正訳語は 〈単純性〉ではなく、「一元性」である。これが「偉大さ」の本質である。
 「一元化する人間精神」は「深化」するのみである。「深化」する人間精神のみが「神」と出会いうる。

ぼくを打つものはすべて 「深いサンプリシテ」において打つのである。真実に打たれるとき、誰においてもそうであろう。

これを志向していない真実な思想者、芸術者は、いない。

  一元性に還元され(装飾をすべて捨象され)て 浅いか深いかのみが 「審判」される事であろう。
  〈学説〉や〈技法〉でいくら複雑化(粉飾)してもどうともならない。


ぼくは、愛の定義である美しかもとめていない。

ずっとそれを言いつづけているだけである。なんという深い路であることだろう!


魂という純一なものは無限の万華鏡を蔵している。


「自分自身が」探求することが、真に責任をとることである。「遺言」などに逃れはしない。


あのような美を生みだすきみを尊敬し愛します


この不安定な時間現存在の只中で生きることにおいては、愛の経験は決意となり、創造的忠実の源泉となる。