高田博厚の『分水嶺』-1975-、ガブリエル・マルセルの『道程 いかなる目醒めへの?』(帯:「死を直観した哲学者が幼児の体験からその晩年に至るまでの全生涯を告白にも似た口調で語る。」)-1971 服部英二訳-、この二書に相当する、思想者の「人間自身」が語っている「自伝的作品」が、ヤスパースにおいては、『運命と意志』-1967 ハンス・ザーナー編 林田新二訳- である〔Karl Jaspers : Schicksal und Wille〕。このことを紹介しておく。

 この書から、過去に赤線を引いてある言葉をいくつか紹介する:

『 このように校長と私の間は相互の戦いであった。この戦いは私の卒業訪問の際に絶頂に達した。〔・・・〕私が校長のところに行った時、彼は「全くもう君はろくな者にはならないよ、君は器官に病気があるのだから」といった。病気だというのは本当だったが、私はそれほど驚かなかった。人生がどうあろうと、病気であっても希望をもって将来に目を向けるだけの勇気を、私は内的生活を通じて身につけていたからである。
 私の級友たちもこの間私を見捨てた状態であった。みんなも校長に味方した。いざこざがおこるたびに、私の方がいつも撹乱者であり、みんなの外にいるわがままものとみられた。ギムナジウム最後の二年間はこんな状況であったが、その頃父は次のようにいって私を助けてくれた。「もう君を支援するものは何も残っていない。今こそ君は、自分一人で自分を助ける仕方を会得しなければならない」と。
 〔・・・〕狩りの方はどうだったかというと、私はまだ気づいてはいなかったがすでに病気になっていて、猟銃を目標に向けてしっかり保持するには力が足りず、銃がいつもぐらぐらした。ある日、私は森の中で一人きりでいて、泣きながら、私には狩りはできないと思った。しかし、一体どうして、またなぜできないかが本当にはわからなかった。私の身体は生命の要求に堪えうるものではないという意識が私の中に生じた。』 (17-18頁)

 興味深いのでその前後も記した。奇蹟的に高齢まで生きた、精神医学の泰斗でもある彼の一生は、病気との闘いであった。弱者にたいする社会権威の酷さ、人間そのものの酷さを、いくつもの次元で彼は知りぬき経験しぬいていた(ユダヤ系夫人をもつゆえのナチスの迫害は周知のこと)。

『 いろんな病的な容態に起因する麻痺に対して対応するということが、私の人生を一貫して見られることである。しばしば自由がきかず仕事が出来なくなる無為のために、私はその当座は困惑した。
 一九〇三年六月九日(日記)「私は、徐徐に情熱が減退しながら自然の中へとおし流されて死んでゆくことができるように、夢をまどろんでいたいと思うような気分に傾くことが稀ではない。……もう一度やってみなければと思うことによって、しばらくするとそんな気持ちから仕事へと立ち戻りはする、……しかしその際私はひそかに、私の植物的な生命がなおしばらくは続くとしても、やはりしばしば現われてくるこの劣悪な容態が……正常な精神的な前進を妨げるから、やはり私は絶望的な事態に立ち戻るのだと思いがちである。力のない日日やいろんな私の容態には……常に憂鬱で拒絶的で死を志向するような特徴がある。……私はそれに抵抗しようと努めるし、また、活動的な生への意志はあらゆる存在に必要なものであり、したがって世界にとって……不可欠なものであることをはっきりさせ、その反対は……発展と存在とを拒否するものであるからいわば悪であることを明らかにしようと努めはする。しかしいうまでもなく、このことがうまくゆくのは、ただ思考の上だけのことである。感情には変わりがない。そしてある時はそんな感情に身をゆだねきって草原に横になり、星に向かって空想にふけり、また地面の中に沈み込みたいと思う。」』 (211-212頁)

 これも忘れ難くこころに刻まれている章句である。最初「書斎より」の主題欄に入れようとしたが、ぼく自身にあまりに痛切に密接するので、「自分に向って」に入れなおした。

 つづいて書かれている(二十歳を過ぎた頃である):

『 一九〇四年十二月三十一日(日記) 「私は死んだ人間だ。多くの人にとって私は堪え難いものであろう。何らかの友との魂の一致はもはやなく、女性への愛もなく、何かを生み出す力もない――私には今なお生きる目的があるのか、……何をしたらよいのか。いじけた発育をしている植物を、何かその植物にも可能な限りのものにしあげること、それを健全なものとの関係の中へと秩序づけて、健全なものが容易に大量になしていることに、わずかでも協力するように助けてやることこそなすべきこととも思われる。〔・・・〕』(212頁)

『 一九〇五年八月十一日 「〔・・・〕重要な意味のある精神的な仕事を生み出してゆくには、私は余りに天賦の才に恵まれていないが、しかし逆に、学問の標準的労働者に満足して与しておれるには、余りに天賦の才に恵まれている。私の本質は、教えられたことを応用することによって、また精神的な才能に恵まれた青年に教育的な影響を与えることによって、人類の福祉に貢献するような実践的な活動をするように私に強いる。ところがこの二つのことを私の身体がどちらも拒否するのである。何か打開策があるだろうか。『人が懐疑している限り、彼は絶望してはいない』(ヤコプセン〔デンマークの作家、一八四七-八五)。」
 〔・・・〕あらゆる私の活動の中には一つの循環論証がある。すなわち、私は健康であるためには現実的に生きねばならないが、しかし、人生を現実的に生きるとたいていの現実の事態のなかで私は病気になってしまう。多くの感動――喜びであろうと苦痛であろうと――は容態を悪化させ、そのために、体験した経験を自然に展開することができなくなる。〔・・・〕』 (213頁)

 これが、もっとも活力にあふれているはずの年齢期の、歴史に刻まれる科学者かつ哲学者となる人物の自己告白である。「自分の現実的行為はまるで自分を欺いて為されているかのよう」とぼくが以前自分を形容して書いた表現は、ヤスパースの自己告白の言葉として読んで心に刻まれていた言葉を用いたのである。
 「絶対的意識」がどういうものか、充分感得されるのではなかろうか。

『一九〇四年十二月三十一日 「正常な魂の場合、その魂の活動と展開の能力の大部分は身体の特性に基づいている。……身体を使うことが魂の生きる喜びの基礎なのである。この正常な魂が病的な身体に宿った場合、その魂は、その展開の条件を奪われているのだから萎縮せざるをえない。私はまさにそのようなものなのだ。ただ減退することのみが可能だという将来の暗い見通し。……私はいつも自分の与ええないものを要求される。〔・・・〕
 一九〇六年八月「……健康な人たちは病人を理解することができない。健康な人たちは心ならずも、あたかも病人もまた健康であるかのように、自分たちの生活実践や自分たちの態度や業績で病人を評価する。彼らは、身体の弱さとの戦いのなかでは何が本当に有益な仕事であるかを理解しないし、……それを知らないがゆえに病人の仕事に敬意を払うこともない。」』(221頁)


こういうものを読んで感銘を覚えるひとに、多言は要らないとおもうし、何も感じない連中には、なにか言うだけ無駄だろう。かなり精力をつかいながらも時を忘れて集中し丹念に書き写したのは、ぼくも或るいみで至福の時間をあじわったのだが、こういう貴重なものをぼくの欄で読みえたことに感謝してほしい。


〔ぼくが二節前で「学識者は謙虚であれ」と言ったときに思いのなかにあったのは、上の最後で傍線を施した言葉である。〕

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この書の「第一部」と題された頁のはじめ、大きな余白部分に、鉛筆で細かく高田先生の『思索の遠近』-1975- 260、262頁から、先生が森有正氏の『バビロンの流れのほとりにて』から引用している言葉を、ぼくは書き記していた。ぼくのためにそれをここに記す〔「『バビロンの流れのほとりにて』と共に」パリ、一九五七、二、二二。この冒頭で、先生が、「森有正から『バビロンの流れのほとりにて』を贈られて、私はすぐさま読みとおした。深夜になったが、それからもう一度終りから逆に読み返した。」と書いているのは、人間、気が入っていればそういうことができるだろうが、あの本を、さすがだな、と感歎する。〕:

「一つの生涯というものは、その過程を営む、生命の稚い日に、すでに、その本質において、残るところなく露われているのではないだろうか。」

「過去が逆流し、外が内転し、更に内が外転し、それが未来に向って流れ出す、・・・時間という空間の中を過去に向って進んでゆく汽船の船尾に坐して、後方を見るようなものである。未来は過ぎて来たうしろに向ってどこまでも拡がる。」

「僕自身がふるいにかけられるのだ。そしてそれはもう僕の判断の問題ではない。過去自体が、事実として、自分で自分の裁判を行ってゆくのだ。その時、過去の様々の映像は、それ自体で、愛すべきもの、憎むべきもの、尊敬すべきもの、軽蔑すべきものとして、どう否定し、あげつらいようない姿で、定着してゆくのだ。」

 ずいぶん昔、記したはずだが、原文を正確丹念に写していることをいま確かめた。ヤスパースの「自伝」の冒頭にこれらの句を記したのも、ヤスパースもまた自らの「経験」を結晶させて己れの思想を形成した哲学者であることをかんがえればふさわしい。だから、ぼくは既に、ヤスパースの「歴史性」の思想と森氏の「経験」の思想との接近性を、この欄で言った。

 もうひとつ、高田先生が同意して引いた森氏の言葉をここに、先生の添えた言葉とともに記しておく。ぼくもこの理解に同意する。この意味で先節でぼくはモンテーニュに言及した。ぼくがこの欄を書く「方法」がこれであることを自覚していることも既に言った:

《私達が各自ひとりの経験があるゆえに、当体を通して同一し、当体の普遍なものに合致するのである。「モンテーニュは、あのエッセーを書いて、人間と人生についての様々の定義を与えてくれたが、もしくは暗示してくれたが、あれは頭で考えるのとは凡そ別の過程によっている。人生経験そのものが、彼の中で、あのような表現に結晶したのだ。」このような思索態度に、心ある者はヴァレリーやアランのそれとの近似を感じるであろう。「外部は僕を圧迫しなくなると共に、誘惑もしなくなった。内側にこの重さを抱えて、僕はこれから何年かをすごさなければならないのだと思う。それがいつか本当の僕の思想にまで純化されるのか、あるいはこの重みを抱いたまま死ぬのか、それは僕にとっては愚かな質問である。僕は思想(経験もまた)を得ようと思って作りあげた思想(または経験)の代替物がいかに下らないものであるかを、この目で見た。過去が逆流し、〔・・・・・〕》 (「思索の遠近」262頁)

 「思想をもつ」ことについて、「自己の内部が外部より重さをもつに至ること」 とぼくも自分の言葉としてこの欄で書いた。


はからずもぼくもふくめた皆がこの節に集まってくれた


ヤスパースは、ドイツの大学哲学者としてはめずらしい、モラリスト(人間性探究者)の系譜に入れることのできる思索者であるとぼくは理解している。この意味で、彼の先に、ぼくにはフランス思想の海原が広がっていたのである。


裕美さんの荘厳なバッハ演奏を毎夜寝る前に聴きます。聴く度に尊敬します。祈りの時です。
いつまでも、尊敬して愛する関係でいたい

26日深夜

モンテーニュ、アラン、ヴァレリー、リルケ、ヤスパース、マルセル、高田博厚、森有正 (生年順)、それぞれが、自分の固有な生活形態のなかで、メタフィジック(形而上)に連なるような、自己の感覚と経験の結晶である思想に至っている。そして同時に、真の「人間の思索」がいかなるものであるか、しめしてくれている。


同日朝

  ぼくの読者は総体としてもっとレベルが高くならなければならないという印象をもつ(この節への接続数から)


昨日から、何が僕の集中を妨げているかを注意しながら、集中力の恢復に、いまの状態ながら努めている〔身体正常なころはそういうことを問題にする要がなかった〕。かなりの成果がさっそくでてきたことは、この節を集中して作れたことに現われている。同時に、今日気づいたが、ぼくのなかで、無礼な他者をその存在ごと否定する力が強くなっている。これをぼくは肯定する

自分にすこしでも実践的な力が増すと、そういう力がつくらしい