高田先生が、みずからの彫刻行為を定義する言葉、「自分が自分自身に向って行動する」とは、日常のすべての行動において言われているのであることに、忽然と気づいた。

なんという孤独な道だろう。向かうものが自分自身でしかないということは。孤独に面する神しかない。自分の歴史も全部自分のみが背負うのだ。先生も 彼女も そうして歩み仕事しているのか。ぼくももとの体と状況だったらそうしていただろう。そしてこれを書くことはなかっただろう。なんとも皮肉なことだ。読者に向かう場に自分を定位して、自分のみに向っている。当てにしても仕方ない読者を忘れて。ほんとうの恩恵に、世は感謝するということを、多分知らない。二三人はいるのだろうか。当てにできるのはそのくらいだ。貴重な遺産の価値を感じうるのは。ゴッホも、ルオーも、高田先生も、もっと孤独だったのだ。喜色満面の〈ファン〉の誰が、彼らをほんとうに解っていたか、その当てにならなさを、彼らは、いちばんよく解っていただろう。「おまえたちがわたしの仕事を解るって?」と。



ぼくが自分のために書くという純粋な動機のみがのこる



ぼくはもっと読者のことを忘れるべきだろう  再初心




〔 ぼくはもう自殺しない。何度かやったができるものではない。       

 同姓同名の被害者がいるがそちらが自殺したのか。ぼくが「集団ストーカー」(まったく品のない名称だ)現象が周知事象であることを知ったのは、自分の本の出版状況を調べてみようと思い、自分の名で検索したら、この人物の記事を偶然見出したからだ。 自分で電子欄を書きはじめて以来、いちども再訪問したことはない。まったく異質態度だからね。〕

 
 まともな読者は十名にみたないだろう。 くだらない。




高田先生をよく知っている人々のひとり、加藤周一氏は、先生をモデルにして、主人公が自殺する小説を書いた。先生自身はむろん長寿をまっとうした。強健にめぐまれていたから当然だが 〔ルオーと作家の親友レオン・ブロワとの間にも、後者が書いた小説のために、内的悶着があったようだ〕、しかしここに、世間人と、それを一歩超えたひととの境界線がしめされているとは感ぜられる。普通では生き耐えられないだろうような生き方をしてきた高田先生は、親しくしているような日本人知識者の誰にたいしても、同時にひじょうに辛辣な視点をもっていたことは、周知のことである。先生の「友」となることは、厳しいことである。





ヴィトゲンシュタイン自身の文は、ひじょうな澄明性があり、読んでいてすがすがしいが、それを解釈する日本人学者の文には、内容以前に、いまのぼくは拒否感がある。思想に己れをほんとうに支払っている者と そうでない者との差だろう。思想鑑賞者以上の思想者など日本にはいまいない。力量ではなく、質的に第二の森有正くらいにはぼくはなりたい。ぼくの思惟骨格をかたちづくったヤスパース原著沈潜の数年間の恩恵ははかりしれない。


*実存哲学は分析哲学と対立矛盾するものではない(そのような図式は有象無象の言であるが、有象無象はそれをけっして反省できない)。以下参照迄:
『実証主義諸形式の偉大な人物たち、ホワイトヘッド、ラッセル、ヴィトゲンシュタインは彼(ヤスパース)にとって、彼らが基礎を据えるような著作を作ったにもかかわらず、新実証主義のいかなる形式にも入らなかったという事実ゆえに、強く印象づけられていた。ホワイトヘッドを彼は、形而上学への開けた感覚ゆえに評価していた。ラッセル、この人のあらゆる問題の数学的解決意志にヤスパースはしばしば文句をつけたが、ラッセルの大胆不敵な誠実性に対しては讃嘆した。《彼なりのやり方で独自の人物》たるヴィトゲンシュタインを、ヤスパースは先の二人以上のものと見なした。ヴィトゲンシュタインが、彼と彼の思惟の本質について沈黙したこと、最大の明晰さをもって彼が空けて置く空間を示し、その空間を越えては沈黙し、しかも命がけでそれを要請することによって本質的なものを挙示したことは、ヤスパースにとっては彼をほとんど神秘的な人物にさせ、形而上学的なものの重要性に関して心得ている、形而上学の領域の中での偉大な沈黙者たらしめた。』
 (ザーナー「ヤスパース」178頁 重田訳)


『6・4311 死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない。
  永遠とは時間の限りない持続ではなく、無時間性のことであるとすれば、現在に生きる者は永遠に生きる。
  我々の視野に限りがないように、我々の生にも終わりがない。』
 (ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」より)
  Death is not an event in life :  we do not live to experience death.
  If we take eternity to mean not infinite temporal duration but timelessness, then eternal life belongs to those who live in the present.
  Our life has no end in just the way in which our visual field has no limits.



自分のために:
高田博厚における「触知し得るイデー」十七 ・ 補遺

 象徴としての対象において、イデーが触知的に実感される時、精神の内なるものと外なるもの、すなわち経験された過去としての時間と感覚される現在としての空間、内感―sensualité―の領域と外感―sensibilité―の領域とは、融和して一つと感ぜられている。内感が「肉感」と表現されたのは、抽象的な自我ではなく、「生きて経験する」受肉的自我が問題だからである。そして自我は、感覚される対象との一元的結び付きを通して、その内面性のまま外界に解放され、「無限の中に」自らを思念するに至る。この時、外界は、自我を排除する客観的領域ではなく、親密な――従って、愛される――諸々の形而上的象徴に満ちたものとなっている。それはあたかも、無限そのものが外界を通して自我に語り掛けるかのようなものである。これが高田にとって、「信仰」に通じるかに思われる境位である。「感覚される」プラトン的純粋イデーが神を予感させる。未来からの光が現在の諸々の形姿に差して来ている様なものである。《神に会遇するところまで自分で歩いて行く》〔注三〕、高田の一筋な道において、信仰もまた、純粋感覚の次元で見極められねばならない「時を要する」事象であったのである。


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〔注三〕朝日新聞社刊『高田博厚著作集』(全四巻)〈*〉第三巻所収「アンリ・マティスの「象徴」」(一九六〇)より。

 〈*〉第一巻に『フランスから』、第二巻に『薔薇窓(ロザース)』『分水嶺』を収めている。



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リルケやトーマス・マンが生きた西欧十九世紀末は、所謂科学光明主義の時代であるとともに神が見失われた時代である。ゲーテの頃には保たれていた自己の内面と外界の調和を、この時代に再び見出そうとしたのが象徴主義である。そういう主旨のことを高名なリルケ研究者の高安国世氏も言っている。科学技術高度化の現在、日常的人間意識は益々この「人間喪失」(神喪失は人間喪失にほかならない)傾向、つまり自己喪失傾向に覆われてきている。「人間」が〈機械〉に吸い込まれてきている。ルオーの言葉を繰り返せば、「真の秩序は外部ではなく内部にある」、という真実の忘失であり、秩序意識の転倒である。既成宗教の神にかわる新しく根源的な「神」を見出すことが、真の人間意識の秩序を回復することなのである。リルケ等の課題は高田博厚の課題として現代のわれわれの課題である。
 2015.9.21

『(十九)世紀中葉、すでにフランスの詩人ボードレールは神なき世界の憂愁を住みかとして近代不安の精神をうたい上げたが、不安の詩人が魂のより所を求めて象徴にいたることは、まことに象徴的と言えるのである。なぜなら、象徴こそ魂のふるさとを求める心のあらわれであり、宗教なき新時代の芸術家の宗教にほかならぬからである。象徴主義はすべて現世の事物を、言いがたき実在、時空を超越する本質的存在の象徴として受け取る。つまり我々の存在を不安として、その背後に、あるいはその内部に、確固とした実在を認めなければいられない精神とも言えるからである。だから象徴主義を広義に解すれば、近代の多くの文学作品は多かれ少なかれこの色調を帯びていると言うことができるのである。』
 高安国世「リルケと日本人」7-8頁(一九四八初稿)


奇しくも先生の原稿と同時期に書かれている。


しかし、神の不在に苦しむ西欧人の意識が、日本人に了解できるだろうか。もっと正確に言うと、神の不在に苦しむほどの自我意識、つまり人間意識の蓄積を、どれだけの日本人が自分の歴史において経てきているだろうか。この問題を「日本の」問題にすることは詭弁でしかない。西欧人も各自が自らに問い悩み「人間実体」を築いてきたのだ。キリスト教は、自我に目覚める環境媒体にすぎない。西欧知性者はそれとの格闘によって厚い自我意識を培ってきた、それに対応する真実で緻密な意識が、日本知識者によっても現在ですら示せるものとして在るか、とぼくは問うている。高田さん以外に誰かいるか。夏目漱石や太宰、内村鑑三、あるいは西田幾多郎のような思索者すら、「純粋自我への密着」が足りないとぼくは思っている。ぼくが過去に読んだ経験ではそうだ。何が邪魔しているか。ぼくは各々についてもう感覚的に感知している。それを敢えて一言で言えば、それぞれに、緻密さの方向を間違えている、というのがぼくの言葉だ。ほんとうに俗から浄化されていないからだ、とぼくは言っておく。このぼくの感覚に応じるように、いま列挙した誰も、高田先生の照応の相手にはなっていない(先生みずから率直に述べている)。ロマン・ロランやアラン、芸術家であればルオーのような存在は、日本にはいなかった。西欧には夥しくいた。環境的にも、「人間の証」が到る処に在った。だから高田は日本人には、謂わば出来上った思想家よりも、人間本質が率直に生きられている人物を求め、友としたようである。高橋元吉や中原中也、また武者小路実篤とも、生涯的に交わったのは高田のこのような心性からであると理解している。「生きられている純粋さ、一元さ」、を求めたのである。この意味でも森有正との交わりは、思想内容的に特異な例外的なものであったようである。


〔以上、「自分のために:」以下は過去節より。〕


- ぼくは特殊な余裕のない薬害変容状態(他者には想像不可能)のなかで書いているから、表現の仕方がひじょうに直截で遠慮のないところがあるとおもう。通常状態のひとは真似をしないでいただきたい。-



 人間の生とは、多層的な「矛盾(アンティノミー)」、つまり「皮肉」であり、この皮肉の力学を逆用して何事かをし遂げることである。明滅する星のようにみえるが、滅はなく、明あるのみである。これは「ぼくの」信仰である。




 〔〕共有してくださるのなら 集合容喙への〔〕共有してください。是非