感謝することは、なかなかむずかしいのだという。これはすこしこみいった事情があって、感謝は普通の感情であるのに、この感情を同時に打ち消すごとき言動をも相手がなしていることが多かったり(とくに世話焼き気質というものは余計なことまで言うものだ)、感謝の対象となる事柄の「次元性」とも云うべきものが多層であったりすることによる(つまり自分がどういう次元の事柄を人生の究極価値として志向して生きているかによって、本音の感謝感情が向けられる次元領域が異なるという、謂わば「価値観の闘争」のなかでわれわれは生きていることが多いからである)。
トップブログが云々という話題がこの世界ではかまびすしいが、数にかかわるいかなる事象も、とくに精神的文化的価値とはまったく無関係であることは、各々意識に浸透させておいたほうがよい。ボードレールやヴァレリーそのほかの偉大な文化人の作品を紹介したり、あるいは彼ら自身がこの時代にきて、謂わば匿名でブログを書いたりしても、さっぱり、いかなる〈トップ〉欄にも載らないだろうことは確実である。大衆意識の本音なるものが観察されるにすぎない〔既にこれ(当時の雑誌新聞欄構成の様相)を逆用してヒトラーは独裁者となったことは、マックス・ピカートの指摘するところである(「われわれ自身のなかのヒトラー」)〕。御碩学方も同意なさるはず。経済価値の視点というものはほんとうにくだらない。
「史上最強の思想、その形成方法 | 重力波私観 」が あまり注目されなかったのは、複数視点からずいぶん意外だった。ぼくにとっては大事なことを記した。やはりほんとうの読者というものは多くないのだろうか。それはそれでよい 誰でも言えないことだが、ぼくの判定者はぼく自身だけである
唐突だが、ぼくは引っ込み思案ではない。ずうずうしすぎることを自分でよくわかっている。だから、つとめて人前で敢えて遠慮するポーズをとっていた。するとこれがぼくの性格であるということになり、「彼はツリュックハルテント(引っ込み思案)なのが気になる」などと、最初の留学先であるドイツの教授からもさっそく指摘されることになり、「教授は敏感な男だからきみの性格をすぐ見抜いて・・」などと荒唐無稽な事を日本から書いてきた。じょうだんじゃない、外国先で、いくら日本風土から解放されたからといって、いきなり初対面から、相手は名の知れた教授であることになっており、いくらぼくが腹の底ではそういうことを問題にしてはいないとはいえ、自分の地を出したら、それこそどうおもわれるかと、いささか演出過剰な謙譲さをとりつくろったら、その「敏感」な教授も見破れなかったらしい。それを得々と書いてきたのもどうしようもなさの上塗りだった。ぼくはこういう「性格」です。ああ、太宰がそうだったとか
〔教授が 「二度めに会ったときの彼(ぼく)は、大変明るい青年だった」 と伝えてきた、と、後日 日本から書いてきた。それはそうだろう。ぼくの自然体を許容する空気だということがわかったからね。その教授とは、ぼくの疾患手術のこともあったから、ぼくはドイツ語で頻繁に手紙のやりとりをし、その分量の多さ(意識しなかったが)まで伝わっていた。〕
ほんとうの高踏派であればぼくはこれをみとめよう、みずから自任するほど自分の純粋さを自覚しているのであれば。 しかし自分をみずから〈俗物〉と言ったり〈軽い〉と言ったりする者にかぎって、はなもちならない高慢者で、高踏的にかまえているのは、どうしたことであろうか。そういう輩にぼくが辛辣で厳しいのはあたりまえである。 ぼく自身は純粋な魂を護りたいとおもうのみだ。そういう意味で、そしてそういう意味でのみ、ぼくは、現存の人物で、ぼくよりほかに、正真正銘の高踏派をみたことがない。
日本の過去の同名でよばれている者達は、俗気がありすぎて、ぼくの言った意味では みとめがたいという印象をぼくはもっている。
真の高踏派は、これをみずから見出せばよい
メタフィジック感覚といえば術語的になるが、自立的で純粋な魂的真実探求の窮極にしめされる実感に忠実である態度である。「神」不在の純粋も高踏性もありえない
これだけ書いてきたことの意味はあったとおもう。自分をこれだけ主張することができるようになったのだから。なにもしめさないで自分を主張することはできない
これが「魂の実証」のひとつの意味である
ぼくの意図は、此の世を去る前に、自分の魂に形をあたえ主張し この世に自分の存在を刻印しておくことなのだ
所謂社会に認められることは二の次で、社会空間という場で自分が自分自身へ行動し、その行動の「形」に自分が納得するに到ること、自我が自我自身を承認するに至ることが、「実証」と「刻印」の意味である
ぼくの経験範囲内で言うが、日本の学者、特に哲学者なるものが、表の〈謙虚さ〉の裏でどれほどむなくそが悪くなるほど高慢か、ぼくがどれだけ謙虚か、大方は知るまい。「学問」にとどまっているかぎり、それは必定であるとすら言いうる。たぶん、世間的には良質でも、本物ではない人種にしか、ぼくがふれる機会がなかったからだと思いたい。だって、ぼくのような人間もいるのだから
