そろそろ稿をあらためましょうか

所謂善行はけっきょく裏目にでる というのは善行は期待させるからである。しかし善行は本質的に特別な例外的なものと解すべきものであり、即座に或いはやがて引っ込むものと解すべきである。稀なものだから尊いのだ。「創造的忠実」(フィデリテ・クレアトリス)は、よほどの「愛の決断」を前提するものであり、ぼくだったら裕美さんと先生のふたりにしか踏みきれない。そのほかの方々には、そのときどきの、けして持続しえない「単発関与」しかできない。このような(あまり使いたくない言葉だが)「差異化する関係」が、人間本来の関係であるとおもう。だから最もこのましい「一般的」関係は、浅く長くであることは よく云いえている。ぼくのような自己集中型はそれも続かない。つまり、各自がよほど「個」のなかに納まっている社会でないと、善行の結果は期待、失望、反発という過程をとるから、はじめから何もしないのがいちばんよいのである。各自が自分自身に集中している社会でないとぼくは軋轢なく生きれないのだ。まったく本質的に西欧的人間である。渡欧経験からでなく、生得的にそうなのである。「行為」による関わりではなく 「存在」による関わりが、人間関係の中心になるべきである。関係そのものに証(しるし)をもとめない関係であるべきであり、証(あかし)は自分の「存在」のためのものでなければならない。そこに各自が注意するような社会になれば、行為による関係でなく 「存在による関係」が成立するようになる。各々がそこに根をはるようになれば、社会そのものが人間文化的に安定してくる。いますぐ、一日一善などやめることである。他者に関係する行為は、「存在に拠る関係」に基づいて出てくるべきである。義理は論外である。 愛は、存在による関係である。
 〈親切〉な日本人に何故ひとのこころを忖度しない言動が多いかを、熟考されたい。
  〔日本人の同胞への物言いは外国人からも顰蹙を買っている。〕


日本という国は、どうしても、物質的革命を起こす必要はない(物質的革命で人間意識は変わらないことを歴史は証明した)から、フランス革命の歴史ではなく「人間尊重」の「理念」に倣って、意識革命を起こさなくてはならない。これが新憲法の礎になるべきである。




〔先節で 「カント「根本悪」の再定義」に、自分だけわかりきったことのつもりでも、と気づいて、いちおうの文法註をつけたが、これだけの些細な作業でも、いまのぼくの かろうじて保っている状態には、ダメージになるのである。自分のためには後悔している。「本質的内実」への集中沈潜しか、いまのぼくは欲さないし できない。 (ドイツ語のウムラウト記号はフランス語のトレマ記号を使えることを覚えた。)〕
  いちいちすべてを言わないことがぼくのよくない傾向かもしれぬが、ぼくは卒業論文でカントの「根本悪」の問題を扱ったのである。その際ヤスパースの「カントにおける根本悪」(1935)という分量としてはコンパクトな論文をひとつの導きの糸とした(当時は未邦訳。現在はどうか識らない)。この論文はカント研究者の間でも定評があるのはよいのだが、〈易しい〉と云われるのは、読み方におおいに疑問を呈させる。ヤスパースに共鳴するぼくにとってこそ、この論文はかなり難解であり、内容の真意を読解することに相当注意と沈潜を要した。内容を開陳するのは一苦労であり ここではしないが、ぼくが言いたいことは、どうやら〈易しく読める〉というのは相当の問題があるということを、気づくきっかけの一つになったということだ。「君等はね、易しく読んでるんだよ!」と言いたいのである。おわかりか アランの、デカルトにたいする世評を拒否侮蔑する態度と、ぼくの態度はおなじなのである
 ぼくの文章も、やさしく読んではいけないのだよ くるしみたまえ それがわかるということだ
 高田さんの文章も 裕美さんの演奏も そうですよ

 ぼくの本を苦労して読む教養力も無い出版関係連の無学さをぼくは侮蔑する


ぼくの人生のために言っておくが、学生時代にぼくがあのヤスパースの『哲学』(勿論原書)を、ついに一日十頁も読めるようになって(専門学者でも「あれは日に三頁が限度」と言っていた)、感極まってそのことを口にしたら、ハイデガー学者が〈あんな易しいものを〉とぼくにきこえるように呟いた。こういう学者の隠した高慢をぼくはもっとも軽蔑する。高慢でないハイデガー嗜好者(学者・研究者)などぼくはみたことがない。
 ぼくは過去に他者や場の雰囲気に気を遣いすぎて呑みこんだ言葉が多く、それを今頃吐きだしている。世間の連中は、ぼくなどついてゆけぬほど、もっと性悪なのである。その心性が信じられぬ。

 
 苦労するということと理解するということは同じことだ  この言葉 誰のものかわかるね





人間だから真善美に感じる心はたいてい皆持っている。そういう(内的)感覚があるということと、それを人生に活かす力とは、無関係ではなく連繫してはいるが、或る種の緊張関係にあるとぼくはおもう。そこに、真善美に忠実であることの〈工夫〉の余地がある。ぼくの「魂(たましい)主義」は、その〈工夫〉としての人間的人格的な内的努力をふくむものである。 言ったように、美術者でもこの忠実の義務を怠り裏切ることがあるのをぼくは識っている。「ただしくかんがえる」修練義務から免れているひとはひとりもいない。



ぼくは「存在の善性」など信じていない。「存在」はぼくを裏切った。ぼくが裏切ったのではない。存在が裏切ったのである。「裏切り」は「存在そのもの」にも存する。人間の裏切りより遙かに深刻である。それをぼくは日々経験している。この二重の裏切りを凝視しつつ「自分」と「イデア」と「人間」を護ること。課題は、おめでたい結末が待っている『ヨブ記』などより 遙かに深刻なのである。



ぼく自身 懺悔したい気持に駆られるが、それは上の二つの場合のどれにも相当しない。上の二つ(「裏切る人間」と「裏切る存在」)はそもそも自分を反省する資質に欠けている。悪魔の走狗にならなかったぼくは誰も何も裏切ってなどいない。ほんとうに裏切っていたら反省と懺悔はできない。自己否定でなく懺悔したい者は幸いである。ぼくは幸いな者だとつくづくおもう。ぼくが懺悔したいのは、これだけ「真理」に敏感で本性的に善であるにもかかわらず、確信に至ることにこれだけ長く躊躇し彷徨した自分を懺悔したいのである。確信あるいは既に自分に在った確信の確認に、これだけ戸惑い、その間、悪魔(その存在を認めないほどぼくは此の世に〈善意〉だった)にしたい放題させてきた自分を懺悔したいのである。
 〔自分のなかに既に真理の確信のない者は けっしてこの当の確信に至らない。だから真に懺悔することもない。「自分いがいのものにはぜったいなれない」のと同じである。〕



これまで(ここ以前の節もふくめて)で述べてきたことを要約しつつ言うが、キルケゴールとヤスパースの云うように、意識存在である人間は、自己に関わることにおいて己れの超越者すなわち「神」に関わるよう規定されている存在である、とわたしは断定してよいとおもう。人間は自分自身に関わることによって人間なのである。それができない、深められない者は、人間として他者に関わる資格がない、とわたしは言う。それは謂わば動物が群れ集うのとおなじである。わたしはこの人間規定に、「美」と関わる行為性を、「自己-神-関係」における「美」の具体的根源的媒介性(ぼくの魂主義では同時にこの関係の本質性でもあるのだが)のゆえに、この人間規定そのものを観念性の危険から救い現実的ならしめるものとして、入れ込むべきであるとする立場である。この際、同時にわれわれは此の世の悪魔的存在性と直面せざるをえないと わたしは突きとめた。「人間の秩序」と「実在の法」とは根源的に異なるとまで尖鋭的・対峙的に見做す根拠があるとわたしは断ずる。そこで、人間が人間として自分自身に関わる生き方をすることこそ、人間を「存在」たらしめることであり、この人間の根本的生き方に基づいて、「存在による関係」が自他間に成立して生きられる社会こそ、人間文化的に成熟し落ち着いた精神的創造社会となる、という「先進国像」をわたしは確信している。これは「人間とは何か」を真摯に反省すれば必然的普遍的にそうなるのであって、人間の普遍的価値意識に基づく社会展望である。ここで「神」を人間精神の必然的相関者として「信仰」的に措定することは必定である。「神の理念」は、人間がこれと魂的に関わらねば人間として存在しえない必然的理念であり、「人間の秩序」そのものの根源的項として、この「秩序」に内在する本質として、「実在の法」に反抗しても、むしろその反抗の証として措定されるべき必然性がある。この「理念」は単なる観念でも唯の理想でもない。人間がこれに信仰的に関わることによってのみ人間として「存在」し「実存」するところのものであるからである。人間の「存在」を承認するなら同時に同様にその存在性を承認していなければならないもの、それが「神」なのである。「人間意識は神の意識とともに生成する」とヤスパースが不断に云うのはこの意味と根拠においてである。「創造主」に反しても「神」を措定することを虚妄として拒否する者は、同時に「人間の存在」を、つまり自分の「自己存在」を、拒否することになることを、わたしはこの欄で指摘してきた。ここでいっそう明確にし確認する、「神は有るか無いかではない、人間の必然的規定に含まれている」、と。これが「信仰の根拠」なのだ。斯くの如き人間普遍の信仰こそ、誰よりも現代人であるヤスパースがこの時代に復活新生させようとした「哲学的信仰」の芯であり、ぼくの「形而上的アンティミスム」はこれを更に、ドイツ的観念性を超えて受肉的現実性を生きる「魂の路」として各自の内に目醒めさせてもらおうとする営みなのである。

節のはじめに高田先生の「祈り」の像を置くようになった。ぼくの思想のいとなみすべてが、「祈り」をふくみ、「祈り」にふくまれて為されているいとなみなのである。

から、魂の渾身で、これまでのわたしの思想を全体凝縮してみた。きわめて大事であり、多くの読者に納得してもらいたい。


 

補遺 「存在による関係」を成り立たせるものが「無欲性」であり、この「無意志」は「純粋自我への意志」として「自己自身に純粋に関係する(向かう)行動」である。これによって「人間」が「存在する」のである。わたしの読者はよくおわかりとおもう。