「不随意的な啓示性を本質とする感覚次元」 : 感覚は本来、恣意的な現象や力ではなく、それ自体において秩序指示的な本性をもっている、ということです。
「受肉的で包括的な内面性」 : 「感覚の還元不可能で根源的な直接性の承認と、それによって開かれるひとつの一元的な次元の承認」 によって成る概念。これは同時に、「感覚」次元の形而上性、存在性(ENTITE)の承認を意味します。「感覚」は、物質的身体の現象に還元されるものではない、ということを承認することです。このことは、われわれの形而上的INTIMISMEの境位の要(かなめ)になります。
魂的な親密性は、「感覚」と「思念」の存在論的な相互浸透性のなかに育まれる、と言うことができるでしょう。
さて、きょうぼくは、欄の表題のなかの自分の名前をはっきり本名の「正樹」に直しました。自分の自己同一性をこのあたりではっきり回復するためです。「信義」という武士のような仮名を表にだしているよりも、本名の正樹のほうがほんらいの穏やかさがでるのではないかとおもっています。(彼女にぼくの本名をしっかり覚えてほしいと思いはじめたのがいちばんの動機です。)ぼくはぼくであればよいのです。まさきくんの復活です。しばらくゆっくりします。この欄を書くためにもやらねばならないことがあります。
俗世のフィルターを通しては、ぼくはまったく理解できません。
このフィルター浄化に、ぼくはかなり貢献していると思います。
同じ人間なので、ぼくの感覚に感応することができるからでしょう。
しかし過度の期待は禁物のようです。
自分を俗世の媒介物から隔てるよう、いつも心がけています。
そうやって、なるようになるしかないでしょう。
自分しか読まないのであれば、もっと言えますけどね。
自分がどういう存在なのか、静かにわかってきているようにおもいます。
なぜ「洗脳」されないかということも。
「純粋」であることと「意識的」であることとは分けられません。
これは所謂能力があるということとは違いますよ。
しかしこの点では、高田博厚より上かもしれない