アウグスティヌスは、罪さえもひとを神に近づける、と云ったと記憶している。自分にほんとうに孤独に面する内的感覚にとぼしい日本人には、そこにおける「神」の切実さはなかなか了解できないだろう。人間精神のすべてを思想でもいいかげんにすませている(わたしはそう思う)から。だから、個人がひとを愛することにおいて神の意識と葛藤を起こすというようなことも、ほとんどの同胞は感覚上縁がないとすら言える。わが国のひとびとが抱える人間問題はじつはその最深の淵源をこの意識の浅さに、神の感覚の欠如に、もっている。つまり、特殊文化の相対比較では問題に応えることにならない人間普遍の問題を、日本の社会伝統そのものがいいかげんにしていることが問題なのである。人間はけっして無条件に「無私」になどなれない。実践的な無私は、何かの為の無私なのである〔志のある処に自己はある。「無私」の真意は、この志において自己が自己自身に関わることであり、そのような自己そのもののなかで自己を相対化することである〕。一時的な無私であり、徳のように恒常化すべきものではない。日本の徳育はこれを恒常化する傾向がある。けっきょく、社会集団主義が人間を呑み込む構造になっている。「私」が肯定されなければ真の「神」は問題となってはこない。いま、まともな知性人は誰も日本をキリスト教化しようなどとはかんがえないだろう。ぼくがキリストの聖堂や聖像を愛するのは「普遍の神を求める感覚と意志」からであって、その「普遍的人間主義」の歴史における象徴美だからである。ぼくの言う「形而上的アンティミスム」の理念において自覚されている「神の探求」こそが真に正しいのであって、ぼくはこれを「意識的に」自覚していることにおいて現在日本で唯一の人間であろう、と言ったのである。創造行為において「事実的に」神と共に生きているひとについては、ぼくはそういうひとを感ずる感覚があると自分でおもっている。そういうひとの尊さを護ることがぼくの大きな必然欲求であることは一貫している。高田先生は思索者かつ芸術者として「意識的に」も「事実的に」も「神」と共にあった。ぼくはやがて同様にそうなりたいと念じている。さればこそ、ただ研究として「神に面する人間」を論究するヤスパース学徒であることを敢えて超出して、具体的感覚が豊饒な伝統をもつフランス圏で、「研究が同時に創造であるような」道の実現に賭けることを決断したのである。これが高田先生とマルセルを両極(むしろ両面)とする、ぼくにおける「形而上的アンティミスム」の路なのであって、ヤスパースの「実存の学問」を内実的に決定的に越える唯一の自覚された路なのである(だからヤスパースの思惟世界を経ない者はほんとうにぼくの意識はわからないのである)。そのような抱負と自負がぼくの思想理念には精神経験集積と感覚として深く重くあるのである。ぼくが真摯に生きてきた自分の歴史の全重量が掛かっている。この路はみずから「人間の愛」に生きなくてとてもゆけるものではない。ぼくの「魂の妻」である裕美さんをそのひとも世界も愛して共にこの「魂と神の路」をゆきたいとおもう。

予想しなかった深展をこの路においてした A Mon Dieu に告白した



 
きみに尊敬される夫になります



形而上的アンティミスムはぼくの道そのものの名である

これを承認する最大の権威者はぼく自身である(どんな障礙があろうとも)





 




きょうの薔薇のような姫椿






蕾たち




これは姫椿であって山茶花(さざんか)ではありませんよ。いま咲いている時期からして、今年は自分を山茶花と間違えているのではないでしょうか。


 




1987年のカラヤン指揮ウィーンフィルニューイヤーコンサートを試聴しているのだが、正月を完全に否定する演奏をしている。時節を超越した自分の音楽世界の表出に没入しきっている。このひとの集中沈潜は一貫して神技境位である。有無を言わせない。そういえばベームも最近さっぱり話題にのぼらない。ハイティンクを見出したが、ぼくを惹く指揮世界はそこのあたりで止まってしまっている。聴衆や時節を否定した自分の時間を奏でる「永遠の音楽」を聴かせよ。

 カラヤンの音楽世界の神秘感(最初から一貫して感じてきている)は、高田先生の作品の醸す神秘感と重なるものがある。はたして、先生はカラヤン音楽の純粋性をきわめて高く評価していることはかなり周知のことと思う。

《それまで私が知ったどの指揮者よりも古典的(クラシック)な正統な読み方をする人なのが分かった。〔・・・〕 まともに「音楽」に当面する人。〔・〕 ドイツ音楽の価値でもありまた欠点でもあったロマンティスム雰囲気から抜け出て、粉飾なしに「音楽」をそのまま現わせる音楽家が出た。カラヤンはその偉大な例だと思った。》
《私は同じベルリン・フィルハーモニーを指揮したのでも、ニキシュとシュトラウスとフルトヴェングラーと、それからカラヤンの区別を知っている。だから、カラヤンが他と好いとか悪いとか言わない。私はベートーヴェンを指揮する彼をしか聴いていないが、ただそのまともな態度に敬服する。そしてこれが「古典(クラシック)」を理解した本当の音楽家だと思う。文学的あるいはロマンティックな陰影を除いた時、素裸の芸術が現われる。これが「本物」なのだ。誰がベートーヴェンの希望が分かるか? 彼を「自分の所有」にした時はじめて分かる。唯一のベートーヴェンなるものはない。しかしベートーヴェンは一人しかいない。それを理解することだ。「批評」眼など捨ててカラヤンを聴くがよい。》
高田博厚 『音楽の友』一九七〇年五月号 〔著作集 III 「カラヤンをはじめて聴いた頃」〕