人生は 何処に光を当てるかで違って見えるのである。選択の自由とはまさにこれである。人生はそういう意味で多面鏡、多面の宝石であり石である。そしてこの自由そのものが移ろう。ぼくは規制(統御)などしない。あらゆる意味でぼくに矛盾はないのである。矛盾そのものが意識の発明なのだから。ぼくは意識を突破した自分の魂の本音に全幅の信頼を置いている。しかし大方の他者に ぼくにたいするように信頼はしない。これもぼくの感覚なのである。〔ぼくのこの確信は正しいとつくづくおもう。これについても勿論理屈や強がりでは何とでも言える。しかし本当の動機あるいは人格の純不純をぼくはすぐ感じとる。そうして多くの者は「人間に反する者」になってゆく。〕
信仰は窮極の精神態度であり、持ったり持たなかったりするものではない。自分の生にたいする窮極の態度である。
大方の人間達は今の消費大衆社会の提供する快楽におぼれきって、この窮極の精神態度としての信仰の意識など、忘れ去ってしまっている(或いは一度も意識にのぼらない)。魂の箍(たが)が緩んでいるどころか外れきって無くなってしまっている。だから「人間」の体などけっして成すことはない(ことわっておくが哲学徒などがまっさきにそうなのである。たとえ実存思想を論じていても人間とは言えない者はいるのである)。そういうことをもうわたしは(電子欄世界を無言で眺めているうちに)確信しきってしまった。なにか「一芸」「一道」に自分と時を懸けて打ち込んでいる つまり「仕事」しているひとしか現在では「人間」でありえないのである。自己集中するものをもっており、そこで自分を窮極態度まで追い詰める営為をしているひとしか、「人間の思想」(言葉で表すのみが思想ではない)はもちえない。思想は「人間の自覚」なのだから。現在文人の営為はこの緊張感がないから駄目である。芸術の多くももちろんおかしくなっている。「知性」とは ものと自分とが対決している活動性なのである。そこに自分を追い詰めない者はけっして創造することはない。「創造」する「知性」行為によってのみ「人間」は成る。創造行為でない学問行為があまりに多い。ほんらい、どんな学問営為でも、主体の意識のありようで、人間自覚の自己陶冶となるのである〔それは当然 学問営為の質に反映される〕。現在それはせいぜい高級娯楽、道楽となっている。「神」の問題も茶飲み話の次元だから容易に「無」「空」に換える観念思弁となる。日本の文人は自惚れ卑下で表裏合一、真剣は皆無である。興奮と責任ある情熱とを判じもしえない。「知性」の欠落と怠惰がすべてなのである。それで〈知より情〉など当体無きも甚だしい。どうして歴史から「日本の優れた知性」を顕揚するのか。現在の知性不在を証拠立てている。ノーベル賞が民族の栄誉の如く沸くのも同じである。
信仰と知性なくして愛はありえない 愛こそが思想であるとぼくは言う 愛は信仰と知性とである
真剣を邪魔する今のふざけた日本人になにもわかるはずがない だから真の寛(くつろ)ぎも知らない ぼくはかつていたパリをおもう 君等には関係のないことだ