自画像大 「自分に向って」1000節目
男性でぼくより優しい人間はいない 自画像にその内側があらわれている
ぼくが冷たいと思うならそれはぼくの意識力による偽悪である
他の男性は 自分は優しいと主観的に思い込んでいるだけのナルシストでありその意識には実際は他者不在なのである。だから現実には本性から自己中心的な粗暴さ粗雑さが出て それが実相だと知られるのである。他の男性はぼくとは本性構造が反対なのである。ぼくの優しさは押しつけがましい感情的な優しさではなく 相手に注意する知性からくる優しさであり だからぼくと一緒にいる女性は安心しきり 不安になることがけっしてない〔女性にかぎらない〕。この知性をもつ男性のみが相手の心を自由にする雰囲気をつくることができる〔この知性はぼくの場合ぼくの純粋な魂にもとづいているから、殆どの男性は真似できないだろう〕。優しさとは知性のわざである〔ここでも「純粋な魂にもとづく知性」と言うべきだろう〕。これは他者が攻撃してくるときぼくが抜き身の刀になることとまったく矛盾しない。ぼくは状態と情況によっていまひじょうに傷つけられている。ほんらいのゆとりある自分の状態をつくりだすのは至難のわざであることを忖度せねばならない。義憤の感情が極度に鋭くなっている。とくに美醜の判別感覚による義憤が。なぜなら美醜の問題はほんらいの倫理的善悪の問題そのものであるから〔これは絶対的な真理であるとぼくは確信するに至っている〕。
知性を磨かなければ人間はけっしてほんとうに優しくなれない。知性は他者不在の理屈ではなく他者への注意力である。相手の魂を感じる感覚が根底になければならない。ぼくはドイツ人は嫌いである。他者不在の理屈と感情を押しつけてくるから。「『もの』に即する緻密な思惟」を伝統とするフランス人ははるかに人間的なひとびとで安心する。もうあまりに使って言いたい表現ではないが、概念的思惟のドイツ人が感情的なのであって、ものに即する芸術感覚に秀でるフランス人が知性的(*)なのである。これは普遍的に認められるべき事実である。フランス思惟など感覚的に与り知らないドイツ系研究者が「フランスはラテン系で感情・・」等ほざくことじたいがドイツ的となった成れの果てである。
(*だからこそフランスでは、芸術・科学・哲学を、同一の知性行為として一元的に解そうとする思惟衝迫がつねに活動している。概念理念的にあらかじめ次元分けしてしまうドイツ思惟は逆立ちしてもフランス思惟の「知性感覚」はわからないだろう。)