本来の生の本質は創造のいとなみにある、とするベルクソン的な生理解を、私は疑うことができない。ただ、私は、その創造の根本契機を、魂同士の接触に求めたいのである。このような私の視座からすれば、「魂の親密さ」に通じ得ないような思想営為というものは、その原因が思想家自身のいわば人間質にあろうが読み手の側の資質にあろうが、また、その思想そのものの性格や思想が扱われる場の性格にあろうが、本来の生にとって障害となるものをもつものなのである。最も問題なのは、思想営為に携わる当人達が、このことの意識を欠いたまま、いかなる思想であれそれに基づいて何らかの自己主張・他者非難、あるいは逆に自己否定・他者追従に事実的に赴く場合、すなわち、ひとつの政治的――イデオロギー的――社会がそれによって現出する場合であろう。そこでは、自存的な思想に基づいて自他の価値判定が行われるのである。
 ともあれ、その研究が、単に分析的なものではなく、自分にとって創造的な喜びをもたらしてくれるような思想、すなわち、「魂の触知」が現存するような思想、となると、殆どまれにしか見出されず、しかも、そのような思想には、学問的歴史的評価が、高い位階性において世間一般から与えられているのでは必ずしもない、ということが気付かれた。今となっては、これまでの学問の歴史において何が中心的に求められてきたかを顧みれば、そこには殆ど自明的な理由があることが理解できる。しかしもちろん、そのような思想への具体的着目は、さしあたっては、この私にとっての個人的な真実である。魂的親密性という、さしあたり極めて主観的と言わねばならない「評価基準」(これまでの多くの学問的評価のあり方のアンチテーゼとすら言い得る)に拠れば、久しい以前から、私の中では、高田博厚、そしてガブリエル・マルセル、という二つの魂が、私の実際の学問的研究対象とは別に、第一の座を占めてきた(学問的研究の俎上に載せようにも、得心のゆく方途が見出せなかったのである)。
 ――他の人々にもまた、各々、別の「意中の存在」があることであろう。各人の「個性」という、この極めて曖昧な概念が指示しているものに基づいて、様々な私淑存在が懐かれていることであろう。それでもなお、一個人としてのこの私にとって、このふたりがなにゆえとりわけて親密な存在として定着しているのか、その根拠を反省し明示することは、まさにこの営為そのものにおいて、私の場合という特殊性を越えて、普遍的な意味のある事柄を浮び上がらせ得るものであるということ、この可能性を否定できる者は誰もいまい、と思う。私にとり比類なき存在である彼らとの魂的対話という、私にとって創造的であるようなあり方での探究を実現しながら、同時に私が目指しているのは、このような普遍的意味の浮揚なのである。本書は高田論に捧げる。
 生に喜びと支えを与える創造のいとなみのために、創造の根源である魂的親密性に心の眼を向けよう。そして、そのような親密性が根差している境、指し示している境へと、精神の扉を開こう。

 高田博厚氏の魂よ、我に語りたまえ。
 小さな者達は沈黙しなければならぬ。

二〇〇七年十月十五日