此の世は、遺憾なことに、軽薄な者が断定エネルギーを振るうようになっている。思惟が深く慎重な者は判断に時を要し、その場で「速断」し得ないからである。自分の行為的「即断」とはこれは別問題であるから(これについてもデカルトはみずからよく模範をしめしている)。

日本の〈哲学研究〉者で、このいみで軽薄でない者はめったにいない。軽薄の埋め合わせのために〈哲学研究〉している者が殆どだ。ほんとうにいやになる。だからもうあの連中とつきあっていない。あいつらについては つまらない記憶しかない。感銘を受けたことなど皆無だ。



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「名言」というものにやはり人は惹かれるのだろうか。電子欄界でも名言紹介がしきりにある。ならばヤスパースを丹念に読みたまえ、この、主著が最も読まれず〔翻訳の責任もある。ぼくが再度邦訳出版すべきだった〕、周辺の親切な語り冊子のみ通覧されて、「ハイデガーに比べたら」と上述の軽薄者どもに断定されることの多い、徹底した思惟者(Denker)の著作を。『哲学』を読めずに彼を語るな。軽薄者はわざわいである。この連中もやはり自分の判断を主張し防御したいのだが、それには虚偽断定を積み上げねばならないから。

〔『哲学』は難書である。総数千頁を超える原書で読まねばならないが、一日三頁が限度であるのは専門研究者間で告白されている(これでまともに読んでいるかを判定している)。ぼくはそれを通ってきた。このどこが〈易しい〉のか。かんがえず感ぜぬから〈易しく〉読んでるんだよ。〕

 わたしの紹介した二つの論考はよいものである。概説といかに懸隔した世界であるかを垣間見られる。彼の哲学は不屈の生きる情熱そのものである。
 いま そのなかから(わたしの論考から)ヤスパースの「名言」をひとつ:

 「私が己れを控えているならば、私は生にも死にも至らない」(Ph.III.111)。

 〔原文:Dem Tag wie der Nacht versage ich mich, wenn ich mich zuruckhalte, und komme nicht zu Leben und Tod.「「昼」にも「夜」にも自分を拒み、自分を抑えているなら、私は生にも死にも到らない。」〕

 当該箇所頁