真実の奇蹟があるとしたら それはこの唯一のこと、すなわち、自分自身をくりかえし再び純粋に見出すということである。

 哲学の意味はこれである。「自分の連続を見出すこと」と言うアランは独自に、純粋持続を言うベルクソンと同じことを言っているだろう。ヤスパースの「自由存在としての人間」は、最も深い意味で、これと全く同一である。人間であるかぎりの人間が、自分に立ちかえるとき、本質的に違うことを言うはずはない。そのかぎりで、哲学においてまったく新たな発明というものはない。
 そこから更に深い一歩をふみだす者は、芸術の実践者である。






今日はチェコ・フィル(指揮者ビェロフラーヴェック)を視聴していたので、簡潔にこれで留める。 ロシアでもオーストリアでもドイツでもフランスでもない、その「存在」自体が、何か「木造りの宝石」のように、教えさせる。純朴な洗練。威圧とは無縁の故郷性。リルケの国である。響きと様子から感じる「人間」がすばらしくよい。



若林奮の探求していた自然はロシア的自然に重なる。ロシア映像にいつも感覚するものだ。人間の作為と人工物を挫折させつつ無限に超える自然。欧米の自然観と異なる感覚がロシアにはあり、人間を重厚な沈黙へと鎮まらせる。リルケもそれから影響を受けたはずだ。そこから「人間の成熟」と「あらたな神」へ向ったことを体得的にまなびたい。



ぼくのヤスパース研究の二極をしめした。尤もその一極はまだ中途であるが。包括的な視野を固めることと、一点から深く沈潜することとが必要だ。そのふたつをしめしている。ヤスパースはその企図(志)と哲学的感覚および徹底した意識性において、〈一般〉に知られているより甚だ偉大である。実際に研究する人間の力量が追いついていない。そういう仕事をヤスパースは若死を医師から宣告された先天性病躯を押していとなみ、長寿に到った。「私の生は普通の基準では測れない」とみずから言っている。彼の仕事の領域があまりに広大なので、これを研究することは、溺れると、「自分自身になる」ことの障碍となるほどである。学問に自分を捧げることでよいのだという覚悟と、それを支える身体状態がないと、とても続けられない。
 ぼくの包括的考証は一気に写真版で紹介した。もう一つの考察は、あらためて筆写することで自分で再読したい。集中して再度試みたい。こういうことを日々ピアノで実践しているひとの大変さと充実さを思っている。