ここで限界状況の本質に関する理解が補足されるべきである。限界状況経験のために、己れの規定的状況に面して、更に己れの能動性に基づく状況の捉え直し――Bestimmung――が為されねばならないということは、この限界状況経験そのものの内における一種の間隙に、状況に対する我々の自由に基づく選択Wahl, II.215, 216)の場が存することを意味する。しかもこの選択は、我々がもはや妥当的知において見通し支配することの出来ないものとして直面するに至った状況――「そこから私が実際に脱出出来ず、私にとって全体として透明(durchsichtig)とならない状況」(II.205〔下傍線部は原文でもイタリックで強調〕)――に対して為されるのであるから、第一に、この選択は、この不可避な状況を一挙に全体として引き受けるか、それとも全面的に拒否するか、の決断以外のものではない。第二に、この選択は究極においていかなる知や洞察にも基づかぬ、根源的に直接的な決断であり、見通し得ぬ「現実的なものの無限な深淵」(II.211)の中への沈潜を敢えて行うことである――「状況を知ることによって支配し得ないならば、私は状況をただ実存的に把捉(ergreifen)し得るのみである」(II.205)――。己れの規定的状況は、「一般的なものの観点からのみ、規定的なものを意味する」(II.211)のであり、決して「組み合わせられた一般的諸要素の事例として余さず理解されるような仕方で導出されることはなく」(II.210)、むしろこの規定的状況は、「それに基づいて〔こそ〕私が諸々の世界像の展望の中の或る一つの一般的世界像を獲得する」(ebd.)ような「充実した現実」(II.211)として「包越的」(ubergreifend, ebd.)なものであり、このような状況に対する実存的決断としての選択もまた「包越的な自由」(II.214)であると言われる〔原文もイタリック〕。即ちそれはもはや何らかの可知的根拠に基づくことのないような根源性を有した、「いかなる正当性や理念によっても充分に根拠づけられない選択」であり、「この選択において私は私の現存在の規定性を私自身のものとして受け入れるか或いは拒絶する」(II.215)。それ故、根源的に自由であることは、「あらゆる明るさと根拠づけとを超え出て、ただ特定の状況の内にのみ存するところの、一つの真理の可能的確信を目指して選択することが出来るということの不安静Unruhe)の中に立つ」(II.214)ことである。





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前期主著と正当に目されるこの『哲学』(1932)のなかで、「包越的」と訳しうる「ユーバーグライフェント」という言葉が、あきらかに意識的な表現として目立って出てくる。文字通り「包み越える(越え包む)」という意味にとるべきものであるが、後期の主要概念とされる「包括者」(das Umgreifende 「ダス・ウムグライフェンデ」)につながってゆく表現であるとわたしは解している。

ヤスパースの哲学思想を「前期」「後期」と分けることが一般になされているのは、「実存」を中心概念とする『哲学』までと、その数年後の講義録本『理性と実存』(1935)で明確化された「包括者」概念に基づく、それ以後の「理性」強調時代、というふうに分ける概説する側の発想による。ヤスパース自身は、1937年に為した講義を翌年『実存哲学』(Existenzphilosophie)と題し出版したことによって、包括者概念に基づいてあらためて実存概念を強調している、とわたしは見做している。これ以後、ナチス政権により出版を禁じられる。





前節-論考7-覚書で「実存的交わり」の理念と実践との間の深淵を指摘したが、実際、ぼくはこの理念を否定しないが、現実の人間の本音のなかには、あまりに不純なものがある。誠実な人間の裏にも例えば嫉妬や自我欲が常に可能的なものとしてでも隠れている。人間の内部は純粋と不純との、各人なりの絶えざる闘争の場である。どんな人間も、ふと心無い言葉を相手に発する瞬間がある。そして発した言葉の印象力は取り返しがつかないのである。いったいどんな人間が、自分の動機はまったく純粋だと自己弁護し通すことができるだろうか。自分で自分の心に気づけない人間は、実際多くいて、現実にはそういう人間が殆どだと言えるが、そういう人間はほんとうにどうしようもない。臆面もなく言えると思われるかも知れないが、ぼくはすくなくともそういう人間ではない。ぼくが純粋なのは、自分で自分の心に気づくことができるということなのだ。失言しないということではない。それに気づき、その動機を自分でみきわめ、整理することができる。そうしたら自分でその実のあるところを納得し、その点で撤回しない。この点、他と比較する必要はないが、稀な人間らしいと気づいている。ぼくが自分の言を滅多に撤回しないのは、瑕疵に気づかないからではない。そういうものは全部気づいた上で、本質を肯定し得るから撤回しないのである。しかし大抵の人間は、自分の瑕疵に真に気づかないで自己肯定している。自分に充分意識的でない者は 真に純粋でもありえない。ぼくのように自分に意識的な人間はめったにいない。だから、ヤスパース的な、相互の自己開顕のための「愛しながらの闘争」(liebender Kampf)に入ってよいと認めるような相手を見出したことはない。自分の自分自身との対話における確かな自己反省と自己確信に及ぶものはない。他者の未熟で不純な言を神託でもあるかのように真に受けて混乱するのは御免である。存在するだけで無言に教えてくれるひとをこそぼくは求める。それがぼくの現実的な実存的交わりのかたちである。