限界状況経験の本質

(ヤスパース論考)

一 限界状況と実存的交わり

 限界状況(Grenzsituation)は、現存在(空間・時間の内における生命的存在者)としての我々にとって克服不可能な「究極決定的」(endgultig)なものであり、「我々が突き当たって挫折する壁のよう」なものであると言われる(II.203)。しかし「限界」の本来的意味は、自らの彼岸を指示して「或る他のものが存在する」ことを表現することであり、従って、直接的に可視的な事物のみを存在と見做す意識態度にとっては、即ち「現存在における意識」にとっては、「この他のものは存在しない」(ebd.)。即ち現存在にとっては現存在のみが存在し、現存在自体の限界を真に経験し得ない。我々がこの限界を問い、経験し得るならば、我々は現存在において在りながら同時に現存在以上の存在、即ち実存である。この意味で「限界状況は実存に属する」(ebd.)と言われる。

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嘗て書いた論考を掲載する。ドイツ語ウムラウトはさしあたり下傍線で示す。ebd.は〈同箇所〉の意味。略号 I.II.III.は『哲学』第一、二、三巻、続く数字はテキスト中の頁を示す。






今日の一行:
人間はけっして生物的生命力のみで生きているのではない。それを超えた力が流れ入って生きている。人間が生きるということ自体が既に単なる生以上のものである。そのことを今日ぼくは自分において確認した。




ぼくは死んだ人間だと思っていたら、死んでから書いた論考が客観的世界の中に組み込まれていた(高田博厚論「魂の実証」のこと)。不思議な気がする。




仇討ちという例
仇討ちというものは、果たしてしまった後、果たすまでの感情は何だったのだろうと自分で訝しがるような行為だろう。空白のような解放感で、こんなことならべつに生かしておいてもよかった、と独りごちるだろう。果たした後だからそう感じることができる。ここにも人間の二律背反がある。そこから人間は解脱することはできない。所謂反省というものの有意味性をぼくは殆ど信じない。
 〈自己放棄〉による予めの解脱など、瘦せ我慢の持続にすぎない。「神への祈り」こそが実体性がある。もう随分長いことごぶさたしていた。



『ある人が言った、「人と交わる毎に、わたしは前よりも劣った人となって帰って来る」(セネカ書簡七)と。・・・多くのことをしゃべり過ぎるよりは、全く一言も言わない方がたやすい。人中に出て自分を慎むよりは、静かに家に留まっている方がたやすい。それ故、内なる霊の生活を送ろうと決心する者は、イエスと共に、群衆から退かねばならない(ヨハネ五・一三、ルカ五・一四、一五、一六)。好んで人目につかないようにしている者でなければ、人の前に出ることは安全ではない。喜んで沈黙を守る者でなければ、語ることは安全ではない。』

『自分の室に入り、戸を閉じて、この世の喧騒を断ちなさい。自分の室では、家の外でしばしば失うものを見出すであろう。はいることが多ければ多いほど、室は好ましくなり、はいることが少なければ少ないほど嫌になるであろう。もし回心の初めに、そこに住んで、これに慣れるならば、それは後にはあなたの親しい友、またはいとも喜ばしい慰めとなるであろう。』

『世の喧騒より離れれば離れるほど、魂はその造り主に近づく。友人と知己とから身を離す人々には、神とその聖き御使たちが、近づくからである。不思議なわざをすることができようとも、魂をおろそかにするならば、人目につかぬ所にあって、魂の救いを求める方がまさっている。』

 同書 第1篇 第20章「孤独と沈黙とを愛すること」より

きみは心密かにこの原則の節度を守って生活していることをぼくはずっと最初から気づいている。


ぼくにおいては、この原則は、創造主あるいは悪魔とその傀儡どもを外へ退け、自分の内なるイデアの神と共に、対峙することである。ぜったいにあの連中は神聖さなど解さないのだから。

 

魂の造り主は ぼくの言う創造主とは異なるのは当然だ。