「個」が驚き、感動し、反省意識することが、「人間」の原点である。個が先か、社会が先かということは、フランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン(Maine de Biran, 1766-1824)が当時の神学的思想家ルイ・ド・ボナルド(Luis de Bonald, 1754-1840)と論争した問題でもあった。ビランの『哲学の防衛』(Défense de la philosophie, 未邦訳)は、この微妙であるが根源的な問題を、哲学的良識を懸けて「個」の原理性を擁護主張した論作である。高田が主張する、美における「人間精神の伝統」も、同様の原理認識に基づくものであることは明らかである。

《人間精神の伝統は、社会や時代の変遷とはまた別個に、個人から個人へ継承されてゆく。なぜなら、社会がどのように進歩し複雑化しても、”自我”は常にただ一つであり、そして芸術創作なるものは、いかなる場合にもこの”自我”の表出、さらに的確に言えば、”自我”の内部を濾過して現われる”形”だからである。》

この「個から個への伝統」は、その「継承」のされ方において、個の絶対的独立性を根源とする。謂わば、個の相互間で、各々の窮極の真実性を「確認」し合い、「覚醒」させ合うのが、「継承」の真意なのである。ヤスパースが自らの哲学における「実存的交わり」の理念を哲学史に拡大した『偉大な哲学者たち』(Die grossen Philosophen)の企画、一種の世界哲学の理念も、同様の伝統観に基づくものである。高田はテキストで、ロダンの「フィディアスとミケランジェロには無条件に頭を降げよ」という言葉を掲げているが、彫刻史におけるこの三大巨匠の相互独立性を指摘しつつ、彼らの「超系統的」、「超性格」的な、「彫刻の本質美の一致」、「同一」を強調するために、この伝統自認の言葉を掲げているのである。


〔 Pheidias(フェイディアス或いはペイディアス), 紀元前490年頃 - 紀元前430年頃。アテナイで生まれた古代ギリシアの彫刻家。パルテノン造営の総監督であったと云われる。本尊「アテナ-パルテノス」、オリンピアの「ゼウス像」等を制作。〕