たぶん、人間と人間とはほんらい繋がっているのである、自己に先立って、存在論的には。それに目覚めさせるのが恋愛であり、自分の意志に先立って愛が自己の根底に存在することを、自己の壁を取り払うことによって気づかせる。恋愛における孤独、寂寥感、は、その満たされるべきものとして目覚めた愛が実際には満たされていないと思い込むことによる、愛という自己の根源が崩壊してしまっているという内的感覚だろう。その場合、目覚めてしまった愛という根源に、具体的相手なしに向かうならば、それが「神」に向かうことになる。「自己」は「愛」なしには、つまり「神」への関わりなしには、意識としてはともかく、存在論的には「自己」たりえない。
意識の網に掛からないように、このあたりでやめよう。どうも書斎にいると意識充足的思惟に傾いてしまう。これを理屈というのだ。真実は 「感覚」において不断に実感し直されなければならない。確証はそこにのみある。
具体的な愛の相手のいない神への帰依を、ぼくはずっと昔に捨ててきた。それはもう卒業した道だと思ったから。
金木犀は夜も花弁を閉じないようだ。電燈に照らすとふしぎに香ってくれる
人は、他者がどういう事情で或る特定の言動に至っているか、その事情を知りもしないで云々批評すらしてはならない。その他者に〈忠告〉するに至っては言語道断である。自分に本質的あるいは具体的な差し障りがその言動によって生じる場合にのみ、その点を明確にしてものを言うべきだ。
かつて呈示したこの天使像をひじょうに感じている。精神の秩序にもたらされる。
あらためて紹介、上はランス聖堂の壁面天使像である(高田博厚における「触知し得るイデー」二十三 より)。ぼくが現地で撮ったものを拡大したので写真としてはぼやけているが、その精神はそういうことをもちろんまったく問題にさせない。
下は検索画をぼくが仕上げたシャルトル聖堂光景。ふたつとも、なぜこう気高い神聖なものへ人間を一瞬にして浄化する力をもっているのだろう。しかもその崇高さがかぎりもなく親密で懐かしくあたたかい。
知性をきわめた崇高な素朴さ・・
真の「人間」と「神」が直接に香る
いまちょうど22日真昼正午である