本物は歴史に残る、と云われるなら、それは二義的であると言わざるをえない。多くの一般にとって、基準、となるものが残るとは言えるであろう。残すのは、一般なのである。プラトンやカントは読み継がれるだろう。世の一般の精神にとって基準だからである。それはプラトンやカントが、窮極、であるからではない。他の文化野でも同じである。本当の窮極の真理を言った者の遺産は、謂わば秘教的にのみ、深い少数の精神によって受け継がれてゆくことができれば、むしろ幸運であると言えるであろう。プラトン、カント、あるいはアウグスティヌスを、わたしの本業だと思ったことはない。ヤスパース、マルセル、高田博厚は、窮極のことを言っているゆえに、けっして一般にはなじまないだろう。しかし深い精神によって存在が感知され語られてゆく。ドゥーベル、マルティネは作品を見出すのが難しい。窮極の真実に触れうるほどの深い魂によって、存在が記憶に留められてゆく。「親密」とはここにあるのである。「さかさまの真実」はここでも言い得る。これを一般に開放しうるなら、神々しい仕事である。



上で「秘教的」と敢えて表現したのは、「謂わば」と留保した如く、本来の意を汲まない仮の表現である。本質は、真に根源的であるということであり、「真に深い普遍性」のことである。