だんだんわかってきた。此の世で「成功」するということは、打算妥協の産物であるということだ。此の世で成功している者の内心は、窺ってみるような価値があるものではない。

感謝心という塗糊をとって、純粋心をすてなければならない。褒めた人間であるわけがない。

成功した者は自分を自他に正当化するためにあらゆる観念を発明する。そんなものまともに受けてはならない。

自分の内心を裏切り(あるいはそんなものもともとなく)、云うところの〈自分と距離をとり〉 理想論と分析論をぶっていれば 成功はまちがいない。ぼくはむしろ世の〈インテリ〉どもの正体を言っている。そういう連中がどんなに倨傲の態度のうちに空虚を抱えているかを知っている。本物が出るわけがない。日本知識人は延々とこれをつづけている。自己の肯定に至らず、肯定の根拠を突き詰めることはけっしてない。「神」になど至るわけがない。


〔くりかえして言うことも必要かもしれない。感謝は、ある「存在そのもの」への感謝である場合にのみ真実純粋であり、少しでも利害得失的考慮がからむ行為期待的なものはすべて不純である、とぼくは繰り返し言っている。本末転倒に「感謝・感謝」と唱えている者は「わが身が大事・わが身が大事」と唱えているに等しい。やるのは勝手だが、いっさい人にあれこれ言う分際ではない。「ありがとうございます」と言うのは、具体的な目の前の相手の「存在」への敬意が先ず第一の意味である。〕








真剣に「信仰」をかんがえない日本が「大人になる」ことの意味を圧倒的に履きちがえている社会なのは当然である。






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どうも悪魔は普通の状態のときも容喙していたらしいと今になっていろいろ振り返って思う。ああいうことが あのときにあのタイミングで起きなくともよいのに、と感じることが思い出される。読者もそういう変な経験がないだろうか。〔逆に、よくこのタイミングで起ってくれた、という、出来すぎた僥倖の経験もある。〕

「悪魔は純粋な魂を見つけると全力でつぶそうとする」と言った或るアカデミックな神学研究者の言葉が忘れられない。そんな悪魔に引っ掛るくらいなら無名であったほうがよい。


書いたはずのことだが、ぼくは自分の受けた「被害」を、魂のための「試練」のようなものとしてはけっして捉えないのである。「それ(魂のため)なら、何故ここまで追い込んだ」、と書いたはずだ。ぼくの体験・経験は、此の世を実効支配している力は悪魔のものであるという動かぬ証拠だとぼくは見做している。「天の導き」と思えることのなかにも悪魔の力を想定することを、世の〈感謝教〉は肯定するだろうか。悪魔はこの手が得意なのである。ヒトラーも高速道路網整備や国民車の製造で、いまでも〈感謝〉される("Das ist eine objektive Tatsache!")ことを先ずやった。どうやって善良な民が悪の軍門にくだるか よく省察してみられるがよい〔余談だが、どこかの国が今アメリカやインドネシアにそれを仕掛けている〕。