いま、ぼくの欄と彼女の欄いがい全然読まないと言っていい。ほかは違和感があるためだ。例外は石井一昌氏の欄だろう。本物であるからだ。なぜ本物であるか、生死の境にしっかり腰を据えて隙がないからである。ほかは、読むのでなく眺めるのでよい欄を時々拝見する。大方の文章は、ぼくのいるような生死の境で発せられているのではない。ゆとりがある文についてゆけない。それがぼくの違和感である。ぼくの真実を自分で語っている欄、ぼくが愛しているひとの欄、そして、生死の境に腰を据えている人の判断の欄、それいがいのものは読む気がなくなっている。ぼくがなにか錯覚を起こして自分が普通に生きていると思う刹那、読むこともあるかもしれない。だからそのままにしておいていただきたい。
本を読まなければならない。先生のものをふくめこれはいくらでもある。ぼくのいまのコンディションを言っていられない。目が痛くても頭が効かなくても読まなければならない。他者にはわからないだろうな。同じ生意識で生きていないのだ。
就寝する。