Gabriel Marcel の、子供と並んで座っている哲学者の様子はたいへん好ましい雰囲気だ。「人間」として完全に同じ目線で「存在」しているとぼくには感ぜられる。言葉を換えれば「人間の親密さ」を醸している。これだけで 彼がいかに信頼しうる思想家であるかが証されているとぼくは思わずにはいられない。
 〔この節から彼(マルセル)の対話とピアノ演奏の記録に接続できるようになっている-上部二行から-。演奏は第一部最後と第二部最初に収められている。大変貴重なものである。戯曲創作と音楽創造から霊感を汲んでいた哲学者であった。 記録が制作されたのは1970年6月25日と30日、とある。〕
 マルセルの音楽、この演奏についてはぼくは既に語っている: (490)マルセル音楽・かなしみのなかのきよらかさ  (499) 覚書 (僕の本質)








昨日はほんとうに腹が立ち本気で包丁が欲しいと思う事があった。具体的には書かないが、それでもここに一言記さずにはいられないところに、ぼくの本気さが表れている。敢えて物騒なことを記しておかなければ却って精神衛生上わるいと覚えるほどのことだ。今度類似のことがあったら即行動を起こすつもりだ(昨日もう起こそうかと思ったが、なんとかその前の段階で収まった)。
本気で怒っている。どれだけ迷惑をしたと思っているのだ。死を覚悟せよ。
 〔いま重大なことに気づいた。あの報道、子供も不意打ち的に見ることがあっただろう。NHKは去年あたりから狂っているのではないか。ぼくの個人的怨念を生んだ件とは別に、客観的におかしい。政権に調べてもらおう。これが指令元かも知れぬから、この中枢に一言既に放ってやった。場合によっては政権を潰すぞ。日本政治家の度を越した無教養ぶりが根底にある。〕





まともな体ではないのに安らがせないので日々怒りを充満させて生きている。自制はしているがいつまでつづくか・・・






実存的交わり(existentielle Kommunikation)において、相手に非生産的な不愉快な思いをさせてはならない。ところがそういう器量のある(深く緻密に配慮できる知性のある)人間はめったにいない。ぼくぐらいにならないと成功しないだろう。ぼくでさえ感情に押されることがあるのに。ほかの Jaspers 学徒の全員は学芸会になっている。

一方 この世の社会力学は、弱者を「人間」として尊重するどころか、力が無い状態だと認めると、潰し殺そうとする方向に動くものであり、「人間尊重」など空念仏にすらなっていない。野生動物と戦国時代の原理が現代日本でそのまま行われている。こういう原理にぼくは殺されたのだと認識している。



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マルセルの戯曲を訳して紹介すると以前予告していた。途中まで訳していたものに、「ローマはもはやローマの中に在らず」があるが、訳を書いていたノートを見つけ出すのが面倒なので、彼のほかの戯曲をまったく最初から訳して紹介してゆこうとおもう。「稜線の道」。彼の書いた戯曲のなかで雰囲気の最も暗い、しかし大変重要な作品であるといわれている。いまのぼくがどれだけ訳せるだろうか。