ぼくは自分の一貫した連続意識を失えばすべてを失うだろう。連続意識こそぼくの実体だ。この基盤の上にすべてが、他者関係もすべてがあるのだ。





〔この箇所の文は場所柄を配慮し 883節へ移動。〕









「原因結果の法則」など何の心配することもない。当てにすることもない。此の世はもともと悪魔が支配するものなのだから。このことからこそ、自分の信念に従って合理的に行為すべしという格率が生ずるのである。理想的な神が支配しているからではない。「外応」を〈神聖視〉させ神経症に陥らせて自滅にもちこむのが悪魔の策略である。この種の〈啓発書〉を書いた者は事実上の悪魔崇拝者ではないかと懐疑し得る。

君が、僕が、「これが自分の手順だ」と自分で納得していればそれで充分だ。99の飴をくれてその後 1の致命的毒を飲ませようとする悪魔の手順に乗らないように。あさましい感謝欲など絶対起こすな。


〔「感謝」といえば今度の水害で避難者にしきりと感謝(ありがたい)の語をくりかえさせている報道側の姿勢に深刻な疑問をかんじている。はっきりと、〈どうですか、こういう暖かい食べ物を供給してもらってお気持ちは〉と避難者に催促がましく言ってマイクを向ける取材者の声が報道映像(NHK)で入っていて啞然とした。何の指示を受けているのだ。日本は裏で急速にかわっているのではあるまいな。どこかの国の国営報道を連想させた。〕〔人間のやることではないとぼくは思う。「自分の歴史の証」を失ったばかりの避難者の心境がわからないか!日本という国における、社会的に力を持っている側の、そうでない者にたいする態度を公然と垣間見た思いだ。この態度がぼくを殺したのだよ。

いまの政府、ぼくが支持しなければ誰が支持するのだ。





祈りとは、魂の秩序を回復する内的行為である。第一義的にそれいがいのものではない。





〔今日日曜日(9月13日)はトーマス・ヘンゲルブロックという指揮者のハンブルク北ドイツ放送交響楽団の演奏するマーラー交響曲第一番「巨人」ハンブルク版というのを視聴していた(以上覚えているつもりの通り)。マーラーのいだいていたらしい世界観人生観にはわたしは同調しないが(その意味ではぼくのほうが思想的精神的にはメタフィジシアンだろうが-しかしそういう意識上のことはほんとうは重要ではなく 事実的な感覚こそが大事なのだ-)、ぼくの言いたいのは、マーラー自体よりも、やはり〈本場〉は視聴していて情熱がちがうということであり、この情熱は主観的であるよりも生活自体のありようから来るものである、ということだ。森有正などによって言い古された批評を繰り返す気はないが、日本は技術的職業的には演奏が練磨され主観的には情熱ももっているようであっても、如何せん生活自体は別の次元で営まれているので、演奏と生活存在が一体となっておらず、したがって、具体的にはN響は、今日視聴したような感銘は与えられないだろう、ということを言いたい。ほんとうに「なりきる」ということがない。うらやましく思ったのは、向こうの人間が堂々と自分自身になりきって生きていることであり、それを許す社会風土である、というより、そういう社会を幾多の犠牲を払って獲得してきた人間エネルギーである。そういうものが演奏を視聴していて、全体から、個々人の様子から、伝わってきた、というのがぼくの感想である。日本人は現実の生活場ではなにかというと畏(かしこ)まり萎縮しなければならない〈他者を平気でけなし圧迫するのも同じ意識の反照であるのはあきらかだ〉。そういうところから人間主義の社会風土はとうてい生まれず今日受けたようなものは出てこないだろう。それでいいとはぼくはぜったい思っていない。人間なら皆堂々とせよ、自分の秩序をもって、と言いたい。以上走り書きである。〕
 ぼくは魂であるということを忽然と思った。身体機能的には半分死んでいるはずであり、以前のように生きている実感はしない、にもかかわらず魂になりきっているときはそれを忘れているようだ。だから「ぼくは魂である」と思うのだ。この欄のすべての文と言葉はそのようなぼくから出て来ている。


― 上で「情熱」とぼくは言った。それへのぼくの感銘は、もちろん、ぼくにとっての愛の感動とは区別されている。―