《この頃の僕の精神状態や思想の容相を得るまでに、どれ位の時がかかり、どういう契機に基いているかは、的確には指し示されないであろう。人生と同じで、様々の経験が層(クーシュ)となっているのだから。しかし言葉でそういう状態を言い表そうとする時、自分で目新しい表現を探すよりも、昔の人々の言った言葉に思いあたる。こうして僕はプラトン的な「イデー」の本質を触知(タンジーブル)するものとして感じている。君が書いているゲーテが「原型」といったものと等しいであろう。(・・・)》

 イデア的・原型的な観念(思惟物)を、抽象的概念的にではなく、感覚的具体的に、触れ得るが如きものとして感じているのが現在の精神状態だというのである。「観念(イデー)」は、思惟する人間精神内のものである。「触知」し得るのは外界の感覚対象である。「触知し得る(触知的)イデー」を言い得る精神状態は、従って、精神の内部と外部の間の壁が乗り越えられた状態を意味する。