「馬鹿など相手にしてはいられない」
「ぼくを思って みなが信頼することができるのだ、いつでも」
最近のぼくに湧いた、自分のための言葉と、他者のための言葉。
振り切ることと、受け入れること。単に謙虚でも、厳格でもいけない。
自己の探求、つまり自分の思想(イデー)を見出すことである。真の思想は、自分が拠って立つものの発明ではなく、自分が既にそこから生きている根源の意識化、自覚、である〔これが真の保守主義の原理である〕。 ぼくがこう言うのは、論理によってでは無論ない。そう、直観によって(だから直感ではない)である、と言えるだろう。だから同時に「直観」というものを自分なりに さしあたり的に定義したことになる。
こういう省察より、落着いて「仕事」に集中するのがよいのである。「生きること」が根源である。
「人間は努力することができるだけである。簡単に詫びることは他者受けするだけであって、同時に存在していた自分の真実を、事後的な他立的自己印象を承認することによって自ら放棄することである。そういう安易な途をとるよりも、謂わばふてぶてしく自己肯定することによって、実際そこに含まれていた自分の真実をも肯定し、自分の至らなさは持続的に努力することによって償う、そういう道をぼくは選ぶ。」
ぼくはこういう信念であるから、けっして他律的宗教にはゆかない。自立的信仰があるのみである。自分の根源(Ursprung)からの信仰。 自分の根源を否定する者は他者にも自己否定を促す。この根源(自己)否定が、他律(他立)信仰の基である。
この節の最初の一行は粗野な外見であるが、もっともおおく ぼくを救うだろう。
きょう(7日)の「戦争とプロパガンダ」企画放送はよかった。〈映像〉は言葉を超えた真実をしめすかと思いきや、伝達者が媒介しており、〈架空現実〉化して人心を操作する。「直観」そのものが、思慮反省を欠くと真実の啓示どころではなくなり、「悪魔の傀儡」化する。ところで、これを社会の大元締めである国家が、その自存目的のために確信犯の意志でやるのだ。「現実」だと呈示されるものこそ「懐疑」せねばならない。この点でデカルトの精神はやはりわれわれの指標である。そして、こういう結構な企画放送ができるようになったのだから、われわれは、社会の完成体である国家が必然的に為す、「人間」に背く絶対悪をもうよく認識しよう。かんがえるという行為をけっして過小評価すべきでない。プロパガンダ映像の心理効果は思惟の力によってすぐに断たれる。われわれは自分の精神の内に常に「デカルト」を持とう。国家社会そのものが悪を生む、民を兵とする、有史以来不変の事実を、認識として自分の内に定着させよう。日本も米国も国民を操作対象として扱った。そうでない政治家がいたろうか(いるにはいた。フランスのミッテラン大統領は詩人であった。強固に「人間」であることからぶれない意識があった)。むしろ民衆の水準が、操作を必然的にするのだ。デモクラシー政体こそが大量人心操作術を研究させた。
国が人材育成をするのは国の発展のためであって個人の幸福のためではないことは、戦争のためにあらゆる人材動員をすることが示している。国の当事者にとっては、国の繁栄なくして個人の幸福はないという発想から、国を重視するのは当然だろう。問題は、そういう言葉ほどには個々人の幸福のことなど為政側は情熱をもってかんがえていないということである。そういうふうにかんがえるためには、為政者の価値観が、人間主義でなくてはならない。ところが日本はそういう個人の価値を第一に置いてきた歴史の蓄積などないのである。儒教、仏教、天皇制が、そういう発想を不自然に妨げてきた。とくにいまのような雰囲気の天皇制では、個人の存在の価値に為政側や社会がほんとうに思念を集中することは無理だろう。
きょう偶々、「君はサムライか」と読者に問いかけるスタイルの何かの広告に出くわした。意図することは知らないが、笑止千万である。真剣にやるとしたら、「君は君自身か」という問いかけしかありえない。何を挑発的に鋳型に嵌めたがっているのか。最近、常に背後の意向を推するようになっている。ほんとうに「自分自身」になればそれは同時に、問題の〈侍〉の定義にもなっているはずである。だからさ、そういうの(最初の引っ掛け設問)が体育系コンセプト主義の、自己理解不足の浅はか言辞だから、おやめなさいと言っている。
〔この設問広告は、「君は日本国兵士になれるか」と言っているのと同じである。〕
きょう、あれ、と思ったのに、沖縄県知事と首相が、ずいぶん互いにものわかりよい言い方をしていることがある。なにかあったな。雰囲気が何かを語っている。状況の理解が相当進んだか、状況が逼迫してきたことの認識が形成されてきている、と感じた。社会は状況をあからさまに言わないが、いつ何が起ってもおかしくないことになってきているはずだ。
〔 「救い出してあげる」という発想 〕
落着いて自分に集中しなければならない。それがいっさいの根源だ。
ぼくは確信したが、どんな現実主義的思想家でも、思想を紡ぐ人間であるかぎり、デリカシーがない人間はいない。デリカシーがあるかぎり、或る「弱さ」を人間性に持たない者はいない。真の強靭さは、この己れの「弱さ」と格闘し統御し活かすところに培われるのだ。「魂は甘美であるほどの弱さをもつ」(高田)。それのない現実主義者も思想家も、通用しない。芸術家も同様である。真の自己克服は「弱さ」の自己否定ではありえない。「弱さ」を保持しこれに耐え得る勁さである。この真の克己を果たした者、つまり己れに耐え己れを生かしている者は、見ればわかる。この純粋な強(したた)かさ、これが知性だ〔芸術家としては高田先生とあなたを思っています〕。
これを理解するならば、「人間」をみるならば、右も左も超越する。 8月8日
〔田中清玄と全学連の関係も具体例であろうが、高田先生は自ら左右間を動くことなく両方の人脈と「人間」として親交している。当時の皇太子(現天皇)への御進講も持ちかけられたが、「まだ若い」と辞退している。〕
ぼくには、信頼してよい。しかし期待してはならない。ひとも、期待せず信頼しよう。
硬質な言葉のみが暴言となるのではない。いちばん質(たち)が悪いのは、穏和な微笑の外観で臨む暴言であり、暴力と同様心が無く、同様に悪魔の業と断定される。心があれば出ない言葉であることは判然としている。あまく見過ごされている、心無しの悪魔の傀儡。ほんとうに知性がないのである。
知性とは、自覚(意識)的となった魂である。 〈それ以外は根無しにすぎない。〉
愛することは知性ときりはなされず、相手の光と陰翳を合わせたすべてを愛するほどに、相手を内側から理解していると信念できるほど、相手に集中していることである。
いうまでもなく、ここで直観と知性は不可分の相互性機能、精神の働き、であって、ベルクソンが「知的直観」(intuition intellectuelle)と言うものである。総合にも分析にも直観と知性は表裏一体的である。直観は一挙把握的、知性は細部吟味的、と理解されるかぎり。理屈上は、知性なき直観は盲目的であり、直観なき知性は空虚である、といいうるが、これ自体が抽象的な図式理解であり、事実そうは働いていない。そういう分裂は、愛が働いていないか愛が自己中心的なものであるときのみである。
愛する相手の理解は、しかし自分の度量を超えることはない。自分自身を了解し得る範囲内で、相手を了解したと信念しうる。相手の内面の美が、自分のそれを超えるという経験においては、相手を真に理解したい衝動が、自分自身を深める旅(道)に赴かせる。美の衝撃が、自己探求の根源となる。これが魂の愛である。
「わたしはあなたのすべてを愛します」とは、そういう真剣な了解努力の成果報告か、その努力の決意表明である。
ぼくは真面目にあなたのすべてを、光も陰翳も愛しています。あなたは純粋と知性のひと、魂の強い努力のひとだから(あなたの表情と様子から瞭然です)、笑顔と努力の両面でこんなにつよく全的に「人間」をしめすひとをぼくは他に知らないから、すべてにさきだってあなたの演奏がぼくにあなたの「本質」を啓示してくれたから……
孤独な魂から孤独な魂へ 直に伝わるのが あなたの音楽です 親密で遙かな魂
言葉で表現しきるのを拒むものがあります 言葉を控えることによって保たれるようなもの 宇宙としかいえません
先生の彫刻が無言で現すものをあなたはおなじ気品で音の万華鏡で現してくれます
それがどんなにぼくによろこびか…
魂の籠ったものに触れるのがどんなによろこびか
あなたの魂の奥の至純さが直に触れてくることが…
ピアノを弾いているときほんとうのあなたが出ているのです
そのあなたがどんなに深いものを現しているか… 聖なる浄い深さです
聖水が雫となって降りそそぐような ぼくは恩寵の雨そのものだとおもっています
マルセルが聴きたかった調べだと…
敬虔な気持をもってあなたに心から言います
ぼくはあなただけが大好きです と
8月9日早朝
やはりあなたの本質は勁さです
「人間」はかんがえる勁草である。
「疾風に勁草を知る」 君は 勁草か。