2015-05-27 17:10:05
 



先節で触れましたように、原稿写真と全文を紹介します。池袋西口方向の行きつけだった本屋のケースに、普通そういうものは置いていないのに、或る日、ぼくを待っていたとしか思えないように置かれていました。いま思いましたが、裕美さんのCDとはじめて出会ったのとまったく同じです。高田さんは既にずっと知っていて、裕美さんはそこではじめて知った、というちがいはありますが、どちらも、ぼくがそこに行くのは確実だという状況のもとで、ぼくを待っていたかのように一つだけ置かれていた、ということでは まったく同じです。ぼくの直感にしたがえば、ぼくはこういうことを偶然だとは思わないのです。そう、場所も、高田先生の原稿は東武口、裕美さんのCDは西武の屋上音楽店、ほとんどちがわないですね。東武と西武の間を行ったり来たりすることが多い散歩の仕方をしていましたから。これはねえ、こういう〈出会い〉というのはね、やはり本質的に引き(惹き)合って生じるものだとどうしても思います、無意識次元で(本人が意識していないつもりであるだけだと思いますが)。


先生の原稿一枚目からの写真です。少しずつ紹介してゆきます。



(1)












ぼくはこの先生の原稿を、欧州に行く前に購入し、いままでどんなときもこれだけは離さず、先生の分身として、ぼくの御守りとして、持っていたのだ。先生が元吉さんの色紙を欧州滞在中ずっと部屋の壁に掛けていたように。

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フランスとユダヤ人

                    高 田 博 厚



 一九三五、六年ごろだったか、ヒットラーが
ドイツでいよいよユダヤ人弾圧を始めた頃、
国外にずいぶん沢山ユダヤ人が逃亡した。フ
ランスにも相当来たようだが、私が記憶して
おり、また会った知名の人には、アインシュ
タイン、トーマス・マン、ツヴァイク、クライ
スラーがあった。アインシュタインには、フ…

(2)



 



ランス政府がコレージュ・ド・フランスの講座を
提供して、彼の一生を保償したが、アメリカ
の条件の方がよかったので、彼は止まらなか
ったようだ。クライスラーもアメリカへ行く
途中だったか、パリで告別演奏をオペラ座で
やって、あの時の聴衆の迎え方はたいへんな
ものだった。ツヴァイクには、南米へ行く決心を
した折、私はサン・ジェルマン・デ・プレのキャッ
フェ・ドゥ・マゴで会った。同席しただけのこと
だが、私といっしょにフラン・マズレールがい…

(3)



 


たような気がする。
 ヨーロッパ諸国で、ユダヤ人といちばん問
題を起さなかったのがフランスだろう。もと
もと人種差別がない国だから、日常だれがユ
ダヤ人なのかわからない。現在も二十万ほど
いると云うが、正確な統計は求められない。
ごく普通に他人種とフランス人はユダヤ人と
結婚しているし、またカトリック帰依(コンヴェルシオン)がひじ
ょうに多い。私が知っているユダヤ系フラン
ス人も二十を越えるだろう。ドイツに占領さ…

(4)


 
れていた五年間、フランスにまで手を出して、
ユダヤ人に黄星の紋章を付けさせたが、誰も
付けなかった。
[街ではほとんど目当らず、まれに会う者は豪然と胸を張って歩いていた。]逃げられる者は逃げ、私も三
人ばかり助けた。抵抗派(レジスタンス)に入ったのも多い。
占領中は秘密新聞、戦後は大新聞になった
「フラン・ティルール」紙の社長アルトマンは、抵抗
派の大物で、私の三十年来の旧友だったが、
占領中は始終私と連絡をとっていた。新聞関
係の同僚だったハンガリー・ユダヤのタインも
私はかばって身分を保証した。(ある日本人…

(5)


 
で彼をドイツ当局に密告した奴がいた。)現在
パリの東洋語学校の日本語主任教授をしてい
るアグノーエルもそうだった。
 ゲスタポはとうとうフランスのユダヤ人を
も捕えだし、親子、夫婦を引き離して、死の
火竈(かまど)へぶちこんでしまった。突然やったので、
それまでに逃げ出せない者は、目も 正視で
きない悲歎場で、私の顔見知りの者も数家族
いる。気の毒だったのは、ゲスタポの命令で、
ユダヤ人を連行にゆくフランスのお巡りさん…

(6)


 
だった。またひどかったのは、ユダヤ人でド
イツ軍と闇商売をやっていた奴が、他のユダ
同胞を密告したが、しまいにはこいつも捕ま
ってダホウかどこかに送られた。
 歴史的にフランスはユダヤ人には寛大、と
いうより差別しなかった。フランス人性格の
自由性によるものだろうが、政策的にも弾圧
はしていない。ドイツのナチス以前には、
                                        帝政ロシアの
ニコライ二世時代には、従弟(いとこ)のイギリスのジ…

(7)


 
ョージ五世が強硬な抗議をしたほど、大虐殺
をやったし、カトリック国のスペインでもイ
タリアでもひどかった。カトリック自体につ
いても、宗教裁判(アンキジシオン)時代にも、フランスではス
ペインやイタリアほど苛酷ではなかったのだ
が、あるいはこれもフランス人性格によるも
のか? フランソワ一世代のナント条令(エディ)以前
に連続していた ローマ法王廟に対抗する フランス教会の自治独立(ガリカニスム)権な
どと考え合す と、そ
こに他のヨーロッパ諸国とはちがった人間主…

(8)


 
義的要素をフランスに見出すことができよう。
ロマネスク・ゴティック建築がフランスから生れ
たように、この土地に基礎を置いたクリュニ
ー僧院やシトオ僧院の この面での 精神活動は実に大きか
ったようである。
 ユダヤ人の金融財閥の偉力はヨーロッパに
いないとわからない。今日でもフランクフル
ト出のロスチルド家が絶大の支配権を全面に
持っているが、ロスチルドが草わけではない。
十二、三世紀頃から金融機関はユダヤ人に握ら…

(9)


 
れていたので、ルネッサンス期のいわゆるロ
ンバルド商人、フーゲル家、メディチ家にし
ても、ユダヤ商人との結託妥協で栄えたので
ある。歴史的に流浪の民族、分散し虐待され
ているから結束が強く、金しか頼るものがな
い人種、歴史がこういう強固でずぬけて頭の
好い、というより耐久力のある人間を創りあ
げてしまったのだろう。彼等は本質的にアナ
ーキストである。私は、世界中で第一のアナ
ーキストはユダヤ人、第二がシナ人、第三が…

(10)


 
フランス人だと見ている。ヒットラーのよう
に狂った野望と夢を抱いていた男が、それを
実現させるには、ユダヤ人を根絶しなければ
ならぬと考えたのは、むしろ当然で、そのよ
うな到底実現できないことをやってのけた
ことが、すでに狂っている証拠である。
 昔はフランスでも、ユダヤ人は墓地を所有
することができなかった。パリでも非合法の
ユダヤ人墓地が、現在のモンマルトル墓地の
先、コーランクールの丘蔭にあったという。…

(11)


 
それで大革命でギロチンで首を切られ
たルイ十六世は、優柔不断だったが善根の王
で、ユダヤ人を憐れんで、ヴェルサイユ
にユダヤ人墓地を許可した。今私ははっきり
おぼえていないが、宮殿とサン・シルの中間あ
たりだったらしい。
 ともかく、そんなことでフランスはユダヤ
人に寛大だったし、今日では差別は全然ない。
差別しようとしても、できないほどユダヤ人
は実権を握っている。金融財政面のことは、…

(12)


 
いま資料を調べるほどの余裕が私にないが、
一例をあげても、フランス映画界のパテ・ナタ
ン商会は、はじめのパテがユダヤ人ナタンに
買収されたのだし、大画商のベルネームにし
ろ、ローザンベールにしろ、ウェイルやダヴィドにしろ
ユダヤだ。ベルネームと云うとフランス人み
たいだが、元はドイツ系のベルンハイムで、
大女優のサラ・ベルナァルがユダヤ人ベルンハ
ルトと同じである。大舞踏家のイサドラ・ダン
カンはどう呼んでもダンカンだがこれもユダヤ…

(13)


 
である。第二大戦でドイツのフランス侵入に
先立って、パリのユダヤ系大画商はいち早く
アメリカに逃れたが、その後、戦後にポー
ランド、バルカン方面からまた多量のユダヤ難民
が押し寄せてきた。私が現に知って
いるのにも、ふろ敷一つで難民として流れて
きた夫婦者が、五年もたつと立派な店を構え
て繁盛している。戦後進出して新進美術家を
売出している画商も、名をここにあげないが
みなユダヤで、一人は八百屋、もう一人は仕…

(14)

 
 
立屋だった。そう云えば、戦後大流行の抽象
美術(アブストラクト)なるものも、アメリカの勝利を見込んで、
アメリカ当ての投機(スペキュラシオン)を、ユ
ダヤ画商がやって、戦争中に買い溜めていた
ものである。目先のきくことでは他の民族は
到底及ぶまい。
 ところで、フランスの知性階級に於けるユ
ダヤ人だが、今私は正確な報告を作るための
調査はできないけれども、とてもできないほ
ど沢山いて、区別しないからなかなかわか…

(15)


 
りにくい。ロダンが半分ユダヤ系なことは、
彼の評伝でも誰も云っていないから、あまり
知れておらず、ブールデルもそうだと云われ
ているが、私にはその資料がない。べつに隠しだ
てすることではないが、中には故意に作り
上げた誹謗的なのもあるから、調べにくい。
ドイツのフランス占領中、ナチスの御用学者
が、ゴティック芸術の源はドイツだと主張した
奴か(や)ら、ファン・アイクがドイツ人だ、更にナポ
レオンまでドイツ人にしてしまった奴がいる…

(16)


 
から、あてにならない。ピカソやダリ、シ
ャガール、モディリアニ、ミロ(?)がユダヤなことは周知
だから好いが、注意してみるとユダヤ系美術
家には―いずれもフランスで出生した連中だ
が―ある共通点がある。ある特異なもの、あ
る新規なもの、フランスの長く厚い土壌の中で、
自分を見出そうとするための、フランス美術
であだったらしないであろう、ある特殊なも
のを生んでいる。これはなかなか面白
味あることなのだが、ダリなどになると…

(17)


 
露骨なユダヤ根生〔性〕で、ピカソのような形而上(メタフィジック)
がない。
 進歩派と保守派、この対立闘争は歴史が繰
返す現象だが、ヨーロッパ、とくにフランス
の場合は、日本(あるいは曾ての東洋)のように
派閥勢力闘争よりも、思想的闘争の方に重点
を置いて理解すべきであろう。そして例のド
レフュス事件なども、家庭内が分裂するほど
の混乱であったが、ティボーデェが指摘してい
るように、フランスに伝統的にあった思想の…

(18)


 

二傾向の争いであり、結局昔からあった人間
主義の勝利、理性の勝利と云える。そして
れ以来
、感情的にはともかく、理性的にはフ
ランスではユダヤ問題の決着がついたのであ
る。[この時期に、フランスは二つの
大きな社会問題に、決定的な判断を下して、
明日の人間主義を確立した。ドレフュス事件
に於けるドレフュス側の勝利と、ワルデック
内閣が断行した政教分離で、宗教領域と政治
領域を区別したことである。]一九三五年の人民戦線はこれを一層積極的にした。ユ
ダヤ人レオン・ブルムが首相となる。第二大
戦後はマンデス・フランスが首相になった。(ド・
ゴールの引退後、フランス政治を担うのは彼
だろう。) そしてフランスの政治家は、日本み
たいな教養のない政治屋の集合ではない。政…

(19)


 
治家というより、むしろ大きな思想家である。
つまり知性階級と政治は、日本など比較に
ならないほど密接している。ユダヤ人ではな
いが、クレマンソーにしても、ブリアンにし
ても、エリオにしてもみな思想家であった。
 そこでフランスの思想家、文学者、学者の中
のユダヤ人だが、これはあまり多いので、列
挙することもできぬ。ず、偉い人物は皆ユダヤ人
に見えてくる。ベルグソン、キューリー夫
人、プルースト。私が個人的に知っていたの…

(20)


 
にもモーロワ、リシャール・ブロック、レオン・ウ
ェルトなど優れた人がいた。舞踊のサカロフ
夫妻。演劇のピトエフはどうだったか?
 ドイツ軍のフランス占領中、私がその中に
いて感動したのは、死の寸前のベルグソンだ
った。彼は病んでピレネーの方で養生し
ていたが、ドイツのユダヤ人狩が始まった。
これを知ったベルグソンは、「自分もユダヤ人
だから」とて、ドイツに送られるよう申し出た。
いくらドイツ・ナチが気違いでも、大哲学者を…

(21)


 
焼き殺すことはできぬ。アリアン人種の列に
入れて、そっとしておいたが、ベルグソンは間
もなく、カトリックに帰依して亡くなった。(占
領中、ドイツはフランスで国勢調査みたいな
ことをやって、私などもやられた。人種とい
う欄に、私もドイツが大嫌いで軽蔑している
黄色人種だから、「黄色」と書いたら、向うの方
で「アリアン人種」と書き変えた。)



(彫刻家・新制作派協会員)


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後記
私が購入したこの原稿は、当時の書店(いまどういうかたちで存在しているのかしていないのか不明)の話では、或る人が売りにきたのだという。雑誌か本に実際に発表されたのか否かも判らない。著名な芸術家の歴史的に価値ある一資料であると思い、ここに完全公開した。拡大写真は右端が隠れているが、Word等に〈コピー〉するとA4大で全体が得られる。古川