ぼくは、人間の精神(魂)は不死だと思っている。その意味は、客観的な証明可能性が問題なのではなく、主観的に(この客観・主観という観念も問うべきなのだが)、あるいは主体的に、人間は自分の思索行為を、不死な者としてしか、為すことができない、実際に自分を不死な者と見做して思索している、ということである。われわれが思索するとき、すでに自分の不死・永遠を確信している、ということに、今夜忽然と気づいた。

〔自己と他者とを不死の存在として想いかんがえることが、魂として思惟することである。〕



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今日、或る契機でつくづく感じたのだが、人間の品格は、かんがえることによってのみ保たれる。賢明にかんがえることのみが大事なのである。品格は、賢明にかんがえることの結果であり、この結果としての自己規制、自分の秩序を内部から保つこと、である。生活そのものとなる思索が大事なのである。ふつうに人間が生きていてやるべきものである。「内省の習慣」が品格を出現させる。品格のない者を人間は相手にすることはできない。内省としての思惟を生きていない者は、それだけで不安や警戒の対象であり、一緒にいて落ち着かない。家庭問題もすべてこれが原因である。



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寸記:
ぼくには、かつて在った生れつきの身体状態がないだけでなく、周りの人間の精神状態、正確には魂状態が、以前のようではない。ぼくの身体は自分で感じるとおりのもの(薬害)だが、周りの人間達の人柄異変のほうは、世界そのものが変わったと察知したほど、鮮烈で、変化の前後の人格的対照性が甚だしい。はっきりと物理的次元での変容の様子を報告することができる(いずれ書く)。ともかく、ぼくはいま、二重に以前の状態と違う世界に住んでいる。どちらか一方が、つまりぼくの体が、周りの異変にもかかわらず正常だったり、あるいは、ぼくの体が異常になっても、周りの人間達が以前のようにしていてくれたりしたら、どんなにぼくの安定も保持されていることだろうか。以前いた次元から二重に、つまり完全に、ぼくは締め出されている。どうして此処迄、ひどいことが起こり得たのか。すべての具体的変化(異変)は、あの東京のマンションのぼくの居た一室から始まり、天が狂ったとしかおもえない拡大変化をたどったのだ。そのほんのわずかしかぼくはまだ描写報告していない。

〔当時(2009-2010)のNHK責任者あるいは内部関係者の相当数の人々は、この異変の経緯を知っている。悪の撲滅のため、協力してほしい。ぼくはどうして自分にこういう言語道断のことが起こったか、知りたいのだ。非生産的に敵視しても何も得ない。ぼくの被害の究明のために動かないなら、今の政府もぼくにとっては、この点では支持できない。こちらは生死の問題を、福知山線事故-昨日25日がその記念日-と同質或いはそれ以上の問題を、ここで言っているのだ。〕



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ぼくはむかしから、その名を知る以前から、山桜が好きだ。気づいたときにそれはぼくの前に在った。それを見ながら生活してきた。

小林秀雄が「本居宣長」に添えた「読者へ」の一文は、ぼくの高田先生への態度と、ぼく自身を語っているようだ。ぼくの言葉(でもあるもの)として、現代文でここに書く:

「この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈にしっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、繰り返し、思ってみているに過ぎない。
或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。宣長の述作から、私は、宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思う。」

蓋し名文だ。とくに前半文が。よく、「もの」がとらえられている。この透徹さが基準でなければならない。あまり説明を加えるまい。








自然のうつくしさを感じることに洋の東西のちがいはない。「人間」の普遍的原点である。そこで「自我」をどう思念するか。日本では、自我と凡夫をいっしょくたにして、自我をおとしめ、自然を神格化して、しかもその思惟次元で東洋(日本)と西洋(西欧)を区分対立させて、西洋が自然を道具視しているとし、日本の自然観を優越的に弁護、併せて自我発展に楔を打ち込む。こういうステレオ詭弁はもう処分すべきである。ぼくの欄の読者はこの詭弁から卒業していると思うから、多言しないが、月の美しさを、月面探査後の人間もどう否定しようもない。自然尊重も、少なくともつい最近まで、日本人のほうがでたらめだった(富士山のごみを自衛隊が片づけていた。〈西欧の自然観に毒されていた〉などとは言わせない)。真の自然尊重は、自然に親密に感動する「自我」を反省し、そこに「内的秩序」を自覚する、「人間尊重」からしか生れない。