そうか、いままで本質的でないので意識しようともおもっていなかったけど、きみはまだそんなに若いのか。じゃあこれからだね。きみの「沈黙」があまり気にならなくなった。(よくその若さで何年も前にこれだけの仕事を!修練がちがうのだね。) いまはぱったり、メディアの次元では「沈黙」しているけど、それもいいかもな。メディア〔疎遠なことばだ。やっとこさ言った〕は、ほんとに清濁いっしょくたにする空間で、まあ見なければいいんだけど、きみに関係するところも検索するとね、いろいろ無節操にいりみだれて、ほんとにひどいものだ。ほんらいのきみがいる場ではない。きみはやっぱり、芸能〔これもほんとにいやな単語だ〕関係と、いちど絶縁したほうがいい。大学のクラシック専攻終了者で、教職実習まで経た人間にふさわしい自分の持し方を、したほうがよいとぼくは思います。いまはそういう意味での絶縁期間なのだと、ぼくはとらえることにしています。品位がいちばんです。
 品位を保つとは、自分の純粋な本質を保持するために、俗をよせつけない一種の状態を自分の周りにつくるということです。論理的に、俗とは何か、何故いけないか、説明することができます。それが説明できるところまで、ぼくの欄の内容も到りました。俗は虚妄な表象(イメージ)結合で、人間本質を曇らせます。俗は断つ(断わる)べきです。 この世と距離をとらない者は、本物を生み出せません。

 あなたは、演奏会でも、「ちゃんと聴いてくれるかな」ということを最も危惧し、真剣に聴いていることが判ると、とっても嬉しい、と自ら書くほど、音楽本質本位(クラシック)のひとです。口にはなさいませんが、あなた自身を見にくるような輩をあなたは危惧し、拒否するひとです。「真面目」「真剣」、あなたはこれを最も重視し、真剣で真面目な態度があなたを最もよろこばせるのです。すべてあなたの欄からぼくが読みとったことです。 わたしの結論は、だからあなたは純粋に音楽そのものに集中し、あなたの道をきわめることが、文字通りの本望であるような「真面目」なひとだということです。これはわたしの、あなたの音楽経験のいちばん最初からの信念でしたが、その後、あなたの欄(の言葉)をも仔細に読むことによって、感得され、確認されたものとなりました。クラシック・ポピュラーの分野区別でなく、あなたの「本質」がクラシック(本質本位)なのです。つまり、あなたは、「内的に探求すべきもの」を懐いていらっしゃるひとであり、効果本位でうごくポピュラー界とは質的に異なる次元にいるひとなのです。その世界の人々とは気も合わないはずです。あなたが御自分の道を歩まれる途上で一元化・深化するほど、このことはあなた自身にとってあきらかになって、意識されてくるでしょう。あなたは今そのような途上に少なくともいらっしゃいます。そうわたしは思います。


あなたは実際、大先生がキリスト教経験から出発して生涯「神」を思念しつつ制作したように、自分は信仰をもっています、ということを、けっして口にはなさらないけれども、いつも示唆していらっしゃるようにぼくにはおもえるのです。そうでなければ、大先生の世界の前で全感覚的に感じる透明で孤独な親密感と宗教感を、あなたの世界に触れて同様にぼくが感じることの、「説明」が自分につかない気がするのです。あなたは幼少でピアノをはじめた同じころ、たとえばお母さん(ご両親)と教会にも通っていらしたのではないでしょうか、そういう雰囲気で育ったのではないでしょうか。高田先生はそうでした。あなたの欄を読んでいても、ひじょうに落ち着いたご家庭の、「聖家族」(レンブラント描くような)的な雰囲気がつたわってくるのです。各々の独立、あるいみで厳しいくらいの個の領域があり、そして和やかなのです。ふつうの日本家庭のように家族が前面にでてきたり影響をあたえ合ったりという空気ではありません。うらやましい雰囲気だと率直思います。まったく日常的なことを書いていてもどこか澄んでいて、俗がまったくなくて開けていて、やはりあなたの演奏と通じたところを感じます。間引くべき朝顔の芽を間引けなくて全部生長させたあなたの気持(おかげで洗濯物が干せなくなった)、ぼくもきっとそうするでしょうね。この純心さと、高度に精緻な大人の演奏世界、でも二つとも人間的に澄んでいる。自分のこととして直観できるのは、きみ以外はぼくだけかもしれない。
 ちょっと長くなってしまいました。
 ではまた。