15 décembre 1920.- Je reviens sur la notion de volonté divine. Je ne puis penser la volonté divine comme facteur historique, mais seulement dans son rapport avec ma tâche. Je conçois qu'un Paderewski s'inquiète de savoir si Dieu veut que la Pologne vive; il serait absurde que tel journaliste étranger se posât la question, parce qu'il est purement critique et que la Pologne n'est pas pour lui 《ma Pologne》. C'est ce que je sentais déjà fortement autrefois, lorsque je disais que Dieu ne peut se définir que pour l'individualité réelle, non pour la pensée en général. Le critique est seulement quelqu'un qui prétend voir clair; mais il n'a pas une cause à défendre. On retrouverait ici, approfondie, l'idée roycienne du loyalisme. Mais je crois que la notion de loyalisme universel, si elle a une valeur éthique incontestable, est étrangère à la religion.
 C'est toujours la même question: puis-je reconnaître si Dieu aime la cause que je sers? s'il y a une expérience de l'adhésion divine, ou bien elle sera de l'ordre du sentiment - combien fugace et incertaine! - ou bien elle sera réfléchie et présupposera une critériologie qui me paraît illégitime en son principe même. Se demander 《ce que pense Dieu》, c'est ou bien s'interroger sur la vérité conçue impersonnellement, ou bien convertir Dieu en quelqu'un avec qui je ne vois pas pourquoi je serais nécessairement d'accord. Ceci prouve bien que je pose mal le problème, que la question est contradictoire, que la prière est d'un autre ordre. On pourrait d'ailleurs montrer qu'il est foncièrement absurde de 《chercher à se mettre à la place de Dieu》 et que cependant c'est bien ce qu'implique la question: 《que pense Dieu》?
 - J.m. 264 -

マルセル「形而上学日記」264頁、1920年12月15日の全文。
(さきに原文のみ示した。)

私訳:
神の意志の概念にふたたびもどる。わたしは神の意志を歴史上の要因として思惟することはできない。ただわたしの「使命」と神の意志との関係において、神の意志を思惟することができるだけである。パデレウスキーのような人物が、神はポーランドが存続することを意志する(欲する)かどうか知ろうとする、そういう場合をわたしはかんがえてみる。彼のような外国人新聞記者がこの問いを自分に出すことじたいがおかしい。彼はたんに批評家であって、ポーランドは彼にとって《わたしのポーランド》ではないからである。これは、すでに以前、わたしが強く感じていたことである、わたしが、神は現実の個人にとってのみ定義されるのであって、思惟一般にとってではない、と言っていた時に。批評家はたんに、なんとか洞察するつもりでいる者にすぎないのであって、何か守るべき立場を持っているのではないのである。人はここに、深められたかたちで、忠誠心のロイス風観念をふたたび見出すかもしれない。しかし、普遍的忠誠心の概念は、異論の余地ない倫理的価値をもつとしても、宗教には無縁なのである。
 次もやはり同じ問いなのである: 神はわたしが仕える立場を愛するかどうかを、わたしが判じ得るだろうか?もし神の同意を経験するということがあるならば、という問いである。この経験には、感情の秩序 - どれほど脆くて不確かなことか!- があるか、あるいはこの経験は反省的なものであって、ひとつの〈真理基準〉(critériologie)を前提とするものであるかだろう、この〈真理基準〉なるものはわたしには原理自体が不当に思えるのだが。《神が考え給うこと》を問うことは、非人格的に理解された真理に照合することであるか、神を、わたしが彼にどうしても一致しなければならない理由がわたしにはわからないような誰かに、転換することである。これらのことは、わたしが問題を出す仕方がまちがっていること、問いそのものがおかしいのであり、祈り(la prière)は別の次元のものであることを、示している。とまれ、《自分を神の視点に置こうとする》ことは甚だしく道理に合わないことであり、しかも、《何を神は考え給う》?という問いそのものが、そうしようとすることであると、言うことができよう。




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まあ、わたしの説明などなしで、この深い味わいを堪能してください。こういうものを現在顧みないでいるのですよ。


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パリ滞在時に古書として入手した、マルセル著戯曲「壊れた世界」-1933年版- の表紙と、表紙見返し頁に記されたマルセル直筆献辞と署名。入手の主観的経緯については既に述べた。欧州最後の真の思索者が手に触れた書をいまでもわたしの机上にみているのはひとつの感慨である。